ホンのつまみぐい

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表に出ているとつい見てしまうので

 ちょっと前の話で、今どうなっているのかはわからないけど、以前は名香智子のツイートから、うっすらと嫌中韓かつ自民党よりなのが感じ取れた。

 強く主張しているというより、ぼんやりした嫌悪感や与党支持が匂う程度だったので、こちらも追及しづらかったのだけど、読者としてはぼんやりと「イヤだなあ」と思った。

 名香作品の、年齢や性別に囚われず、自分の愛するものを自分で決めて奔走する感じ。自由な大人の恋愛という感じがして好きだったからだ。

 最初に読んだシャルトル侯爵シリーズは、セクシャルマイノリティーを主役に、さまざまな人間がお互いの好きなように愛しあっていて、その奔放さが楽しかった。誰かが「少女マンガは『運命の異性』との恋が至上命題になりがちなのに、名香作品は最初にくっついた相手と別れてもいいというのがまず斬新だった」と書いていたのをよく覚えている。

 また、少し前にはらだ有彩がWEB連載で『ファンション・ファデ』のファデとルウルウの間の愛と友情について詳しく解説していた。物語の最初に女性同士のカップルとして登場するファデとルウルウは、最終的には別れてそれぞれの道を歩む。だけど、そこにはこれまでに呼びあらわされたことのない愛の形がある……とそんな内容だった。このコラムは後に単行本『女ともだち』に収録された。名香作品に散りばめられた、彼女しか描かなかった「愛」や「自由」は改めて見直されてよいと思っていたので、うなずきながら読んだ。

 そういう「自由」を描いてきた作家が、他者の自由や尊厳を奪うものに対して鈍感であるというのが、とても残念なのだった。

 ただ、思い当たることはあった。私はシャルトル侯爵シリーズにおけるイザベラの扱いについて、ずっと悩んでいたからだ。

 同シリーズにはリオンという美形で権力者の青年が、イザベラという地味な見た目の金持ちの娘と結婚する話がある。

 リオンはイザベラのことを「好ましく思っているが愛せない」と思い、イザベラもそれを感じ取ったまま結婚生活を続けていた。しかし、ある日イザベラが飛行機事故で死んでしまう。そのまま独身を通そうとしていたリオンだが、物語中の正ヒロインともいえるアテネーに心を救われる……。

 今単行本が手元にないので記憶があいまいだが、この展開に「イザベラはリオンとアテネーの関係のための踏み台だったのか?」と思ったことをよく覚えている。

 イザベラにとってはあまりにも残酷な展開なので、最初に読んだ時に「幼い私が読み取れない深い意味があるのだろうか」と悩んだ。

 長期連載作品だし、物語がどう転がるかは作者にもコントロールしきれないだろうから、この読み方は重箱の隅をつつくようなことかもしれないけれど、イザベラは名香好みの美形じゃないからサクッと退場させることができたというのはあるだろうと思う。名香作品には貧乏人も三枚目も滅多に出てこない。基本的に美形、エリート、そして権威が好きなのだろう。

 「美形以外は人権がないマンガ」は読み手書き手の性別を問わずたくさんあるが、男性よりはるかにルッキズムに苦しむ機会の多い女性に向けた作品で、「美形とそれ以外」に差をつけられるとやはり怖い。

 清水玲子なんかも美形の物語内での地位がとても高く、不細工の居場所が狭い。だからこそ、『月の子』でリタが復讐を完遂するのが私には痛快だったわけだが……。

 作品世界で「自由」を描き続けてきた人が、他者の自由や人権を思いやれるわけではない。むしろ自分のお気に入りの「自由」以外は興味のない人かもしれない。

 そういうことを、名香のツイートを見てしみじみ感じたのだった。

 同じことは菊池誠田中秀臣に強く影響された木地雅映子のツイートにも少し感じる。

 菊池や田中の「おれは中央の権威とは違ったところから真実言います。一般の人はまだまだ知らないでしょうが」みたいなしゃべり方はある意味では魅力的だろうし、木地にとっては親近感がわく言葉遣いなのだろうと思う。菊池や田中が人をバカにする時の言葉遣いと、木地が「デマに騙されてるかわいそうな人たち」について語る時の言葉遣いに通じるものがあるからだ。

 それぞれの専門知には価値も意義もあるのだろうけど、それを利用して「嫌いな人種を見下したい」という気持ちが透けて見える。

 木地は作品の中でずっと生きづらい思春期の子供たちの味方であろうとしているし、今だって、これからを生きる子どもたちのために世界平和を願い、懸命に勉強し、発言している。だからこそ、時に差別的なことや論旨のおかしなことを言い、指摘されてもそれを翻さず、むしろ相手をバカにするようなことをいう人たちを信奉しないでほしいと思う。

 既存の共同体に生きづらさを感じ、何とか生き延びようとする青少年を木地は繰り返し書いているが、主人公たちが大人になって菊池や田中みたいになるんだったらしみじみイヤだ。

 「自由」や「解放」を描いているからといって、作家個人の生活が物語に即しているとは限らない。わかっているつもりだし、そうした行動は作品とは切り離すべきだが、表に出ているとつい気になって見てしまい、イヤな気分になってしまう。