ホンのつまみぐい

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グレーゾーンに未来はあるか 性風俗と芸能の境界線上で揺れるストリップ(2018.12.28 messyに寄稿)

劇場は、街の人々の居場所だった


「劇場の扉を開けたら、踊り子さんと糸を持ったお客さんが舞台の上に乗ってて。『え?』と思ったらその踊り子さんが『お食べ』ってリンゴをくれたんだよね。一通り観て、それが花電車で切ったものだってわかったんだけど」

 30代女性のWさんが話してくれた、まるで昔話の一場面のようなエピソード。かつて横浜に存在した黄金劇場での一幕だ。

 「花電車」とは、局部を使って吹き矢を飛ばしたり、筆で習字をしたり、ラッパを鳴らしたりする芸だ。その日のストリッパーは、局部に糸を入れてその端を客に持たせ、リンゴを切るという芸を持っていたという。

「そのリンゴ、包丁よりきれいにむけてたんだよ。あれは同性として尊敬しかないよ……」

 元ストリッパーの女性支配人が運営していた黄金劇場は、数あるストリップ劇場の中でもとりわけ地域の人に愛されていた場所だったと聞く。

 舞台が壊れたら常連客が競馬で当てた数百万を寄付して改修してくれた。一見さんには常連がポラロイドをおごってくれた。その日の演者の旦那が子ども連れで訪れ、ショーの終了後にお客も交えて談笑していた。上演前の舞台の上でカラオケを歌う老人がいた。年配のストリッパーが客におっぱいをさわらせながら、「最近来なかったじゃない」「病気しちゃってさあ」「あたしも今度膝の手術するのよ」と会話していたなどなど、のどかなエピソードには事欠かない。

 そこでは、ストリップ劇場は性風俗の現場であり、ダンスショーや芸を見る場でもあり、街の人々にとっての居場所でもあった。

 しかし、黄金劇場は2012年2月にわいせつ物陳列罪。同年6月には労働基準法違反(強制労働の禁止)によって閉館。同年9月に一時的に再開するが、11月に8か月の営業停止処分を言い渡され、翌年には廃業に至った。

 街の交流場所として愛されてきた劇場が、最後はストリッパーへのギャラ未払いを明かされ、完全に廃業したという事実は何とも言い難いものがある。

 だが在りし日の黄金劇場の様相や、その終わり方は、「ストリップの今と未来」についての様々な示唆を与えてくれる。

 

日本ストリップの負の歴史


 ところで、第1~3回までの文章を読んでいただいた読者の中には、「これは自分が知っているストリップと違う」という違和感を覚えた人もいることと思う。

 じゃんけんに買った客が舞台の上でセックスする、本番まな板ショーがあったはずでは? 東南アジアや南米の女の子たちが売春していたはずでは? ステージを観て女の子を品定めし、個室で本番に持ち込めたはずでは?

 そう、かつてストリップはもっと直接的に性を売っていたし、明確に「人身売買が行われる場所」でもあった。

 日本におけるストリップの始まりは1947年、秦豊吉による「額縁ショー」がはじめとされている。この頃は今のようなダンスショーの形式を取っておらず、西洋の裸体画を模した姿の女性が局部を隠して立っているだけだったそうだ。

 その後、娯楽の少ない時代においてストリップ劇場はその数を増やしていき、ピーク時には全国に600以上の劇場があったという。しかし、1970年代から性器の露出が始まり、同時にストリップのサービスはどんどん過激化していく。

 かつては局部を見せるか見せないかのチラリズムを競っていたストリップだが、過激化のピーク時には鉗子での局部開帳、犬や馬との獣姦ショー、男女の本番セックス白黒ショー、じゃんけんで勝った客とストリッパーのセックスを見せる本番生板ショーなどが横行していく。

 また、70年代には南米や東南アジアから観光ビザで出稼ぎに来ていた女性たちを、騙してストリップに引きずり込み、本番を強要させる例が相次いだ。彼女たちの多くは渡航時にブローカーに借金を背負わされ、売春を強要されながらの返済を余儀なくされる。「本番生板を拒否したために殺された女性がいる」という噂まであったという。

 ストリップ関係者の自伝や評伝は少なくないが、いわゆる「本番」に関してはさらっと触れられるのみで、具体的な描写があまり残されていない。しかし、山谷哲夫の『じゃぱゆきさん』(情報センター出版局/1985年)には、この頃の「売春小屋としてのストリップ劇場」に関する描写がある。

 山谷は、取材相手のフィリピン人・マリアの「本番生板」を目にする。「こけしショー」と呼ばれる性器にこけしを出し入れする日本人女性によるショーが終わった後、「さあ、さあ、お客さん。遠慮しないでどんどん舞台に上がって。早い者勝ちだよ。フィリピンからの産地直送だよ」というアナウンスがなされ、いかにも人のいいサラリーマン風の男性が舞台に上がり、「本番」を始める。

 舞台に上がった男性とマリアの性交を周囲の40人ほどの客が視姦する様子は、極めて醜悪に描写されている。自分を取材しているライターを前にしながら、無表情に事をこなしていたというマリアの心境を想像すると、こちらも打ちのめされたような気持ちになる。

 その後、1984年の風営法改正を受け、こうしたあからさまな売春を行う劇場は取り締まりを受け、減少の一途をたどる。

 今、ストリップ劇場で「本番」を提供しているところは存在しない。

 それでは、ストリップは“ホワイト”な娯楽なのだろうか? そう言い切れるほど、現状はシンプルではない。

 

ストリップは白か、黒か?


 それはストリップを取り締まる法のひとつであり、社会の「性的道徳秩序の維持」を目的とする「公然わいせつ罪」が、あいまいで恣意的な運用を可能にしているからだ。

 公然わいせつ罪において、ストリッパーは「夜道でいきなり性器を見せつけてくる露出狂」と同じロジックで裁かれる。しかし、現在のストリップは「観たいと思った客が入場料を払って劇場に入り、ショーを観る」のだから、実態を正しく把握していれば逮捕は不当だとわかるだろう。

 しかし、実際は警察側は極めてあいまいな基準で摘発を実行する。過去には、ストリッパーや従業員だけでなく、衣装での写真撮影をした客や、リボンやタンバリンで演目を盛り上げた客まで公然わいせつの幇助で現行犯逮捕された例もある。売春防止法や、わいせつ物頒布等の罪ではないことに注意したい。

 撮影した客を幇助で逮捕するのは、さすがに理論が破たんしていると思うが、法による曖昧な定義が権力側に濫用されてしまえば、それが実態とかけ離れた不条理なものでも逆らうことは出来ない。

 性表現を巡る議論では、局部を見せるか否かが争点になることが多いが、実際のところは出す・出さないに関わらず「わいせつを助長すると思われる」と警察が言い出せば、摘発は可能なのだ。

 ストリップファンの間ではよく、「オリンピックや万博に伴い、浄化の名目で劇場が潰されるかもしれない」という話題になる。そこに存在するのは、「ストリップなどという下品なものは我が国にはないことにしたい」という権力側の都合や、「何だかよくわからないが、怪しいものを排除したい」という市民社会のあいまいな意思だ。

 根底にある、性風俗従事者への根強い差別意識や、性に対する嫌悪感がこうした「浄化と言う名の排除」を促進している。

 しかし“浄化”促進派には、ストリップを通して生活の糧を得ている人々、誇りを持って舞台に立っている人々、ストリップを見ることで日々の生活を豊かにし、また日常に向き合っていこうとしている人々への想像力や敬意が欠如している。

 ストリップの未来を考えるという点において、もう一つ留意しておきたいのが、現状でのストリッパーの負担の大きさだ。10日間拘束で1日4~5回ステージに立ち、移動日もなしに次の劇場に入る……という現状の労働条件は、やはり“ブラック”だ。

 空中演目における劇場の安全対策なども万全とは思えない。また、客の中に撮った写真を転売する者や、ストーカーに変容する者がいたとしても、それを阻止する有効な対策は打ち出せていないのが現状だ。

 こうした労働上の問題を、オセロを返すように白にする方法はないだろうし、ここで詳細は議論しない。しかし、せめて何か問題が起きた際に相談できるような窓口は必要だろう。また、ストリッパーがより安全にステージに立つために、これまでと興行の形式が変わったとしても、それを理解する流れは作っておくべきではないか。

 ストリップを文化として残したいと願うのであれば、ファンも含め関わる人々は「人身売買や出演強要のような人権を蹂躙するような行為のない、堂々と楽しんでいい娯楽である」ということを市民社会に向けて発信する必要がある。

 

グレーだからこその自由と寛容


 それでは、ストリップは芸術的で上品な、どこから見ても“ホワイト”な芸能を目指すべきなのだろうか?

 ここが何とも言いようのないところで、ストリップは18歳未満禁止で、下世話で、あいまいで、“グレー”な存在で、だからこそ、市民社会や公権力といった“ホワイト”側が行う排除の姿勢と距離を置いているところがある。

  ストリップほどあらゆる人間がいる芸能はなかなか無いし、ストリップほど誰が訪れてもかまわない性風俗はない。

  劇場には、裸にしか興味がなくてダンスの時は寝ている人も、「来てくれてありがとう!」と言われたくて通っている人も、ストリッパーに心酔している人も、リズムがうまく取れなくて音に合わない拍手をしてしまう不器用な人もいる。

 いや、もともとエロに対する興味や、作品に感動する気持ち、誰かに慰めてほしい気持ちは、人の心の中で混じり合って存在している。

 そうしたグラデーションを一色に塗りつぶさず、あらゆる目的の人が共存できる混沌こそ、ストリップ劇場という空間を唯一無二にしているのではないだろうか。

 劇場では、性風俗に対する物差しも、芸能に対する物差しも、常に更新を迫られる。

 たとえば、初めてストリップを観た人は、よく「ストリップはエロというより芸術!」と口にする。そこに、鍛え上げた肉体や作りこんだショーに対する感動があるのはわかる。

 が、それは「エロのことを堂々と口にするには後ろめたい」と気持ちから発せられる、ある種の言い訳ではないか? そう発する心の中に「エロより芸術の方が上位の存在である」という偏見はないか?

 もちろん、性にまつわることは、本質的にはパーソナルな事柄だ。だから、それをむやみに共有したくないという感情は尊重されるべきである。

 一方で、「エロを消費しながらエロに関わる人々を見下す」という社会の矛盾が法や制度に反映され、性風俗従事者への偏見が強化されている現状で、何となく「ストリップはエロというより芸術」と口にしてしまったのなら、改めて自分のエロへの向き合い方を点検すべきではないか。

 ストリップを性風俗としてとらえるようとすると、そのストイックさや多様さに驚くし、芸能としてとらえようとすると、その猥雑さやいい加減さに圧倒される。

 そこには“ホワイト”な世界の価値観を揺さぶる混沌が潜んでいる。

 東京五輪の開かれる2020年、大阪万博の開かれる2025年を境に、ストリップはどんどん姿を変えていくだろう。ひょっとすると、10年後には今のストリップの形式は消滅しているかもしれない。

 ストリップという文化の面白さを体験し、心を揺さぶられたいと少しでも思うのなら、勇気を出して今、飛び込んでみてほしい。その先に何を見るのか、感じるかは、あなたの心次第だ。