個人的にちょっとびっくりすることがあり、当事者が明言している場合をのぞいて、現実の人々の営みを見て「ここにシスターフッドがある」などと言うのは絶対にやめようと誓った。
フィクションの感想としては今後も使うと思うけれど……。
そういえば、以前『薔薇はシュラバで生まれる』のレビューで、当時の少女マンガ業界をシスターフッドと表現したのだった。
労働条件という意味ではどう見てもブラックな職場を、彼女たちがそうとは思わなかったのは、「先生とアシスタント」が単なる雇用主と労働者ではなく、新しい時代を作っていく同志だったからでしょう。
女の子が「女子ども」のために描きはじめ、今では多くの人々の心を捕らえるようになった少女マンガ。その発展の過程をつぶさに記した本書に、70年代のシスターフッドとも言うべき現場が描かれているのは、なんだか胸が熱くなります。
ここで私がシスターフッドという言葉を使っているのは、ここにある連帯が女性解放を促すような作品を作り出したことを踏まえている。シスターフッドがウーマン・リブ運動の中で生まれた「女性解放という目標を携えた女性同士の連帯」を指す言葉であることを認識した上での選択だ。今読んでも違和感はない。
しかし、タイミングによってはシスターフッドという表現を避けたかもしれない……。要件には当てはまるが、自分が気持ちよく使える気分でないという理由で。
現実の人と人との関係に名前をつけるのは、危険なことだと、改めて思う。
2021/11/9
というより、シスターフッドを人間関係のモデルであるように考えている自分がおかしいのだろう。連帯を人間関係に集約してしまうと、そこからこぼれ落ちてしまう人を切り捨てることになるからだ。