ホンのつまみぐい

誤字脱字・事実誤認など遠慮なくご指摘ください。

Burlesque TOKYOに行ってみた

 経営者逮捕のニュースで思い出したので記録。

 少し前にバーレスクトーキョーにドルオタの知人と行った。

 本題に入る前に少し。

 バーレスクは芸能のひとつであり、身体表現ジャンルのひとつだけど、バーレスクトーキョーは芸能・表現としてのバーレスクに出会う場所とみなされておらず、おそらく経営しているほうもそこにこだわりは持っていない。

 セクシーなショーをお酒を飲みながら楽しめるというフォーマットを拝借して、ハイカラな意匠にすることで話題を集めてヒットしたのがバーレスクトーキョーで、バーレスクの歴史を踏まえて活動している人にとっては、「混同されると困る」場所とされている印象があった。

 とはいえ、ショーを見せる場所としてはそれなりに評価されている印象だったし、大きめのセットを組んでダンサーが大人数で踊ってくれる定常の場所というのもあまりないので、けっこう楽しみにしていった。

 金額は一番安い席でドリンク込6000円。見やすい席や推しにかまってもらえるプランを選択すると値段が上がっていく。

 1週間ほど前に予約をしたのだけど、もう席がいっぱいでかなりの人気なのだと実感した。

 六本木の駅を降りて少し歩くと、途中にバーレスクトーキョー以外にもショーパブっぽい施設やものまねライブの箱があり、「このへんで働く人たちが飲み会後を盛り上げるためにこういうところに来るのね」となんか納得。

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 会場は地下2階。広い舞台の中央から短めの花道があり、会場の真ん中には大きめの柱が用意されている。この柱の周りにもダンサーが歩ける道がある。

 高めのイスと、飲み物と携帯を置いたらいっぱいになるくらいの机がぎちぎちに置かれていた。

 まだショー自体は始まっていなかったけど、ステージには女子高生の格好のダンサーと司会の男性がいて、その時点でちょっと引いてしまった。女子高生コスプレって安っぽく見えるよね……。ちなみに女子高生コスプレは毎回のお約束ではなく、バーレスク学園というイベントの一環としての衣装だったらしい。

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 ショーは10~20名ほどのダンサーによる10分くらいのショーを、セットやダンサーを入れ替えながら見せていく形式で、トップレスに近い舞台だけは撮影禁止というルールが設けられていた。

 かなりちゃんとショーを観せるようなつくりになっているし、演目の数も多い。

 ただ、全体的にダンスショーを見せるというより、セクシーな雰囲気のショーで楽しませるという感じで、「ダンスを見る」つもりで行くとあんまり満足度は高くなかった。f:id:hontuma4262:20240316183613j:image
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・群舞でのダンスの質が揃ってない

・生で見るとセットがしょぼい

・世界観が下世話

 なのが個人的に不満。

 下世話なのは必ずしも嫌いじゃないんだけど、途中に小池百合子ネタの謎映像とか出てくるところが「六本木だな~~」って感じでしみじみ好きになれない。セットの使い方も、派手だけど凝ってはいないし、ダンスショーとしては前に行った小さな舞台とポールしかないショーパブのほうが見ごたえがあった。

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 ただ、一緒に行った知人は「ストリップより楽しかった」と話していた。

 ダンサーが指ハートをしてきたり、立ち上がって振付に参加するように促してきたり、ストリップより参加させる部分や一緒にはしゃげる部分が大きいので、そのへんがよかったらしい。

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 「ストリップはストイックすぎる。あれはエンタメというより表現でしょう」「バーレスクのほうがエロく感じた」とは彼の意見。

 ストリップの「20分近く黙ってダンスを観続ける」という形式はかなり観なれないと楽しみが見出しにくいとは思うので、ワイワイやるのが楽しい人はこっちのほうがいいのかも。

 元アイドルからの転職組もちょいちょいいるらしく、この日も元There There Theresのメンバーが楽しそうにやっていた。ショーパブに行った時も「元アイドルだけど、しっかりしたダンスをやれないのが不満でショーパブに転職した」という人がいたし、ネットのインタビューでは「アイドルは若くないとやれない。セクシーな表現もできるということで転職した」という声も。ほかの業態ではできない表現や楽しみがあるのだろうというのも、まあわかる。

 とはいえ、アイドルが「若さ」「かわいさ」を求められる一方、バーレスクでは求められる「セクシー」に沿った身体のプロデュースを必要とされる感じもあり、どちらがより自由ということもなさそう。もちろん、ストリップも。

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 後日1号営業の許可を取っていなかったとして摘発を受けていたが、まさか自分たちの業態が接待に当たらないと認識していたとは考えづらく、どういう目的で許可を取っていなかったのか、なぜ警察が摘発に踏み切ったのかが気になる。

無許可で接待、「バーレスク東京」経営者を逮捕 アウトになる線引きは? 風営法に詳しい弁護士が解説 - 弁護士ドットコム (bengo4.com)

 ↓以前ショーパブとバーレスクに行った時の文章。

歌舞伎町のショーパブ「nest」と、渋谷 7thFLOORでの「MIDWEEK BURLESQUE」でダンサーいろいろを実感 - ホンのつまみぐい (hatenablog.com)

現代ストリップは多彩なボディーパフォーマンスの場に 女性たちが憧れるストリップの多様性(2018.11.22、messyに寄稿)

 きらびやかな衣装を着て音楽に合わせて踊る女性。会場にはミラーボールや豪華な照明器具があり、ダンサーの姿を美しく照らす。それをキラキラした目で見守る女性たちがいる。

 でも、それはアイドルのライブでも宝塚でもミュージカルでもない。なぜなら、ステージの女性は途中からどんどん服を脱いでいって、最後は裸になるからだ。これは、性風俗関連特殊営業3号営業「ストリップ劇場」での一幕なのだ。

 かつては繁華街や温泉地の定番スポットとして知られ、ピーク時にはその数300以上と言われたストリップ劇場は、今全国に約20軒ほどしか存在しない。風前の灯、絶滅危惧種、斜陽産業と呼ばれがちなストリップ劇場に、今ひとつの波が訪れている。

 女性客の増加と、それと併行するかのような業界全体の変化だ。性風俗に位置づけられ、男性の娯楽と言われてきたストリップ劇場が、今多くの女性の心を捕らえている。撮影可のライブイベントが珍しくなく、あらゆる空間がSNSで共有出来るようになった昨今、完全撮影禁止の劇場内。その秘密の場所、ストリップ劇場で、今一体何が起こっているのだろうか。そして、女性たちはストリップをどう見ているのだろうか。

ステージの神々しさに打たれ、舞台の上へ
「あ、これやんなきゃダメなやつだ」

 AV女優の武藤つぐみは、初めて浅草ロック座でストリップを見た時、そう思ったという。

「思ったよりずっと踊ってるところが多いし、舞台も大きくて広いし、お客さんも熱心な人が多くて……。ストリップって『ピンクでエロ~』ってイメージしかなかったんだけど、その常識を覆されて」

 浅草ロック座の舞台は、本舞台と呼ばれるステージからまっすぐに花道が延び、花道の先には盆と呼ばれる円形の舞台が用意されている。ストリッパーは群舞に囲まれながらステージでダンスを踊り、一人になってから花道を歩き、盆の上にたどり着いたところで、ゆっくりと脱いで、その身体を人々にさらけ出す。この盆での見せ場はベットショーと呼ばれている。

 美しい裸体を誇るようにポーズを取るストリッパーを「まるで銅像みたいで神々しい」と思った武藤は、鑑賞直後に浅草ロック座のプロデューサーに感想を聞かれ「あれなら一日で覚えられますね」と答えたという。

 武藤の大胆な答えに根拠がなかったわけではない。彼女は14歳からの3年間バレエを習っていた。しかし、トウシューズが性に合わずに裸足で出来るコンテンポラリーに移行。それから現在までずっとダンスを続けているという実績を持つ。

 肝の太い答えにプロデューサーが期待したのか、彼女は次の週、2014年5月1日からの浅草ロック座公演にオファーされることになる。出演予定のストリッパーがいなくなったためのピンチヒッターだったが、これが武藤のデビュー。そして、現在ロック座随一の女性人気を誇る人気ストリッパーであり、同時に異端児として注目を集めるストリッパー・武藤つぐみの誕生となった。

 「ピンクでエロいイメージ」しかなかったという武藤を魅了した浅草ロック座のストリップとはどのようなものなのか。

 一般的にストリップ劇場では、4~6人のストリッパーが1日おおよそ4回ステージに立つ。踊るダンスの内容(演目と呼ばれる)はストリッパーごとに違う。ソロアーティスト4~6人の対バンが、1日何度か繰り返されるとイメージしてもらっていいだろう。

 しかし、浅草ロック座では一つのテーマに合わせ、メインのストリッパー7名が、ダンサーを従えてステージを作る。舞台はプロジェクションマッピングで華やかに彩られ、照明がストリッパーの肌を美しく照らす。クレイジー・ホースやラスベガスのショーを参考にしているというその舞台の華やかさは、まさしく「ショー」という言葉にふさわしい。

「自分自身の身体を使って世界を作っていくところがストリップの最大の魅力」

 20代女性のSさんも、浅草ロック座を機に「スト客」となった一人だ。足を運んだきっかけは大学時代にTwitterで流れてきた女性によるストリップのレポートマンガ。もともとK-POP好きだったSさんは、そのマンガに描かれていた「女性アイドルに近い」という表現を見て、足を運んでみたという。

「踊り子さんのスカートがふわっと舞ってパンツが見えた瞬間、『やばいとこ来ちゃったな』と思ったんですよ。これから脱ぐのわかってるのに。でも、見終わったら友だちに『もう一回観ない?』と言ってました」
※業界内では演者をお姐さん、踊り子さんと呼ぶ習慣がある。

 その公演で「推し」のストリッパーを見つけたSさんは、それから浅草を中心にさまざまな劇場に足を運ぶようになる。

 今、日本には約20の劇場が存在するが、浅草ロック座以外の劇場は、おおむね先ほど挙げたように複数名のストリッパーが一日数回ダンスを披露し、合間にポラロイドカメラもしくはデジタルカメラでの写真撮影(1回500~1000円)を挟むという構成になっている。

 通常、ストリッパーは10日を1単位として劇場に出演する。その10日の間に1つの演目をやり通す演者もいれば、2つ以上の演目を披露する演者もいる。

 ここで面白いのは、おおむねその内容は演者にゆだねられているという点だ。たとえば、どんな衣装が着たいか、どんな世界を表現したいか、どんな役になりたいか、どんな曲で踊りたいか、あるいは踊らないか。

 10分ほどのダンスの後に5分ほどの盆でのベットという定番の型さえこなせば、演者は自身を望むようにプロデュースできる。当然、選んだもので人気が取れるかというハードルはあるが。

 もともとアイドル好きだったSさんは、手軽な値段で会話が出来て、さらに近い距離で女性たちのダンスパフォーマンスが観られるストリップにハマっていったという。

「劇場のかぶりつき席は汗が当たるくらい近いから、アイシャドウの色まで見えることもあります。そこで衣装と色を合わせているのに気がついたり」

 ストリップ劇場の席数はおおむね数十から百数十席。イスなどない温泉地の劇場の場合、もっと少ない場合もある。そして、ストリッパーは手を伸ばせば触れることの出来るような距離で踊ってくれる。

 無防備な状態で人前に身体を晒しながら、全身を使ってエロスを表現する。その親密さや緊張感、そして多様さにSさんはすっかり魅了されていった。

「裸になるって、本来は露出しないコンプレックスの多い部分を人前にさらすことですよね。お姐さんの中にはガリガリにやせてる人もいれば、ぽっちゃりの人もいて、すべてが完璧な人はいない。だけど、みんな堂々としてかっこいい。『色んな女性像があっていいんだ。じゃあ、私のこんな体型でもいいのかな』と安心させてくれるんです。」

 Sさんは、「自分自身の身体を使って世界を作っていくところがストリップの最大の魅力」という。そこには、生まれ持った身体を活かすことでオンリーワンの世界を作り上げ、人を魅了していく女性たちへの憧れがあるのかもしれない。

描かれる物語も表現方法も多様化

 そして、現代のストリップを語る上で欠かせないのが演目のバリエーションだ。先ほども書いたように、ストリップは基本の形式に乗っ取っていれば、その後の演出は自由に選択できる。「脱ぎ」という枠の中で、それぞれが自身の個性を活かしたエロスを追及する。その面白さにハマっていく人が多い。

 たとえば、先日NHKのドキュメンタリー番組『ノーナレ』に出演した香山蘭は、「反戦歌」という演目を持っている。戦禍に翻弄され、恋人を失い、自暴自棄になった女性が再生するまでの物語を合計約45分、3部構成で演じるものだ。1部ごとそれぞれにダンスとベットを入れ、セリフなしで戦中から戦後までの女性の生き方を表現している。ちなみに、戦争をテーマにした演目自体はオンリーワンというわけではなく、現役のストリッパーでは黒井ひとみ「上海バンスキング」、葵マコ「ほたる」なども評価が高く、これらの演目はもはやエロを組み込んだ一人芝居の様相に近い。

 こうした物語性の強い演目もあれば、古風なストリップのイメージに直結する花魁の生き様を描く演目、セクシーな女教師が攻めてくるというAV的な文脈の演目などもあり。もちろん、シンプルなダンスを踊りきった後、ベットではゆっくりとその身体を見せつけるようにポーズを取っていくスタンダードな演目もある。そのエロスの表現は一様ではない。

 また、身体表現の方法そのものも多様化している。近年注目を浴びているのは「空中」でのパフォーマンスだ。天井から下ろした布を身体に巻き付け、空中でポーズを取るエアリアルティシュー。フラフープほどの大きさのリングにつかまり、時に激しく回転しながらダンスを構成するリング。正確には空中ではないが、ポールに身体を巻き付け、ステージから身体を離して踊るポールダンスなど。高い身体能力を備えた演者によるパフォーマンスが増えているのだ。

 10年以上空中演目に取り組んできた第一人者・浅葱アゲハは、ほっそりした身体全体に均整の取れた筋肉をまとい、ダンス、ベットという制約にさらに空中でのパフォーマンスを加えながら、さまざまな物語を演目に組み込んでいく。重力から自由になったかのようなその姿は、性別を超えて多くの人を引きつける。空中演目は現代のストリップの多様性を象徴するものの一つと言っていいだろう。

 武藤つぐみも、空中パフォーマンスによりその人気を拡大していったストリッパーの一人だ。もともと、ダンススキルの高さや、役柄が憑依したような演技で高い評価を得ていた武藤だが、その存在感をストリップ劇場の外に知らしめるようになったのは、現在のようなボーイッシュな見た目になり、空中技を披露するようになってからだろう。

 もともと武藤はボブカットに小柄な身体を活かした、いわゆる「ロリ売り」AV女優だった。しかし、ストリップに出続けることにより、自然と身体は「ロリ」に反した筋肉質な肉体になっていく。身体に合わせるように髪を切り、ボーイッシュな見た目を手に入れることで武藤に憧れを抱く女性が新しく増えていった。

「女の子はすごくキラキラした目で見てくれるんですよ。たまに泣いてる子がいたり。男の子は『ふーむ、なるほど』みたいな感じなんですけど(笑)。一見さんでもすごく楽しそうに観てくれるから、ついつい手を振っちゃう。そうすると『キャッ』ってなってくれたり。そういう時はジャニーズになった気分ですね」

 また、浅草ロック座でも彼女の身体能力を信頼し、エアリアルポールなどの新しい空中技や、緊縛師HajimeKinokoとのコラボといった新しい試みを任せるようになる。

 体力的にも精神的にも過酷な演目を任されることもある武藤だが、「『これ出来るでしょ?』ってプロデューサーに言われると、つい『やってみます』って言っちゃうんですよね」と笑う。

「最近だと『WonderLand』という公演でエアリアルポールをやって。それも経験無かったんで、深夜に劇場に行って毎日ポール触って練習しました。終わった後はいつも『二度と乗らねえ~~』って思うんですけど、オファー来たらすぐ『はい』ってなっちゃって。『はい』っていうことは、やりたいんですよね」

 通常のエアリアルティシューとも、ポールダンスとも違うエアリアルポールは、空中に吊さげられたポールにつかまり、回転しながらポーズを決めるという非常に難易度の高い技だ。この公演の準備から開演までの様子はBSでのドキュメンタリー番組『ストリップ劇場物語』として取り上げられ(BSフジや日本映画専門チャンネルで放送)、多くの好意的な反応を引き出した。

 また、同番組のナレーションを担当した人気講談師・神田松之丞が武藤に惚れ込み、ラジオや雑誌で取り上げるなど、連鎖的なストリップのメディア露出の増加につながっている。

 一方でストリッパーたちの劇場外活動も増えており、演劇やダンスパフォーマンスのほか、美しく均整のとれた肉体を活かしてモデルを行うものや、演者としての参加だけでなく、自分自身でダンスや芝居をプロデュースするものを表れている。

 これまで「日陰の芸能」と言われがちだったストリップ界に新しい視点での注目が集まるのと同時に、ストリップで得た表現力を活かして、活躍の場を広げていくストリッパーがいる。性風俗でもあり、同時に表現でもあるという不思議な芸能は、今新しい展開を見せつつあるのだ。

 ストリップの世界を内外に広めるアイコンとなりつつある武藤に、今後の目標を聞いてみると、「これ、ちょっとふざけてると思われるかもしれないんですけど、シルク・ド・ソレイユに行きたい……。それで、情熱大陸に出て『今の自分があるのは浅草ロック座のおかげです』って言って恩返ししたいなって」という答えが返ってきた。

 浅草から世界へ。広がり続けるストリップの世界は、これからどのようにして外の世界へ届いていくのか。芸能であり性風俗でもあるストリップは、今岐路に立っているのだ。

 

そりゃみんな好きになるわと思った女子プロレス観戦「STARDOM in KORAKUEN 2024 Feb.2」

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 やっと女子プロレスを観た。

 なぜやっとなのかというと、私がこれまで接してきたさまざまな文化が、しばしばプロレスと交差していたからだ。

 梶原一騎とプロレスは切り離せない深い縁があるし、ノンフィクションではプロレスは人気の題材だ。

 ももいろクローバーZアップアップガールズ(仮)もリングの上でライブをやらされていたし、ミスiD開催時に唯一写真を買った伊藤麻希は今東京女子プロレスで活躍している。(ももクロ、アプガそれぞれもっと濃い縁があると思いますが、あんまりくわしくないので言い切れる範囲で)

 で、この間アイドルオタクの人に「ドルオタ辞めた人たちは何のオタクをやってるんですか」と聞いたら、二人が「プロレスとか〇〇とか」と答えていた。

 ヒップホップの人たちもプロレス好きな人が多い印象だし、こういうまとめて「サブカル」という箱に入れられるような文化とプロレスの間には、きっと何か通ずるものがあるに違いない。

 で、観て思った。「そりゃみんな好きになるわ」と。

 今回の観戦のきっかけはストリップが縁で知り合ったMさんだった。女子プロレス団体スターダムに大はまり中のMさんが「アテンドしたい」と申し入れてくれたのだ。後楽園ホールにストリップ好きの女性が大勢集合。

 土曜日昼からの興行。タッグマッチとシングルマッチをあわせて16試合。

 まず驚いたのは、身体的負荷が想像以上に大きいことだ。映像では何度かプロレスを観ていたけれど、現場にいて驚くのはリングにたたきつけられる際の音の大きさ。ドーン!バーン!という音の大きさと振動が、全身のダメージを想像させる。

 跳び蹴りもガッツリ頭に当たるし、歯ぁ飛びません? ボクサーにおけるパンチドランカー的なものはないのか? いや、ないはずないな。サイプレス上野がよくプロレスラーに対して敬意の言葉を述べているけど、そりゃこんな技を受けて立ち上がるってだけでリスペクトの対象になりますわ。

 そして、少し見慣れてから驚くのがその複雑な快楽の構造だ。たとえば、柔道なら、快楽の終点は技が決まった瞬間だ。両者とも相手に技を決めさせないために全力を尽くし、自身が技をかけるために必死で相手を崩そうとする。技が決まるまでの攻防や緊張にはわかりやすい快楽はなく、技が決まった瞬間が快楽の頂点と言える。しかし、柔道では一度も華々しく技が決まらないまま、試合が終わることは珍しくない。

 対して、プロレスでは技が試合の間に何度も決まる。

 そもそも、プロレスの大技と言われるような、ポールの上から相手に飛びかかるような技や、抱え上げた相手を思い切りリングに叩きつけるような技は、相手の協力なくして成立しない。だから、試合中にしばしば「相手が技をかけるのを待つ時間」が生まれる。
 逃げればいいのに、なぜ技を受けるのか? 下手に逃げるとお互いがケガをするという面ももちろんあるけれど、基本的にはプロレスが興行であり、エンターテイメントだからだろう。プロレスでは予定調和の快楽を、戦う側も観ている側も求めている。
 しかし、一方で現場で強く感じたのは、ただ技が決まる姿をレスラーも観客も求めていないという事実だ。レスラーがやりたいのも観客が観たいのも稽古の再現ではない。皆が求めているのは過程の豊かさを経ての予定調和なのである。
 ここでヒールという存在の意義も同時に理解できた。
 ヒールはともすればシンプルな格闘の連続になりかねないリングに破調をもたらす。その破調は笑いの形を取ることもあるし、反則技を使っての逆転のこともある。
 会場と相手の空気を読み取り、アイデアと身体で試合の流れに破調を生み、過程の豊かさを演出する。あまりにも知的で大切。なるほど、ヒールとベビーフェイスという形式が固定化されるのもよくわかる。
 協働的な営みであるにも関わらず、勝者敗者の存在する戦いでもある。セッションであり、スポーツでもある。フリージャズのセッション、MCラップバトル、ストリートダンスバトル……。さまざまな分野で観てきたしのぎあいの姿を思い出した。

 また、違った意味で印象的だったのが試合後のマイクパフォーマンスだ。
 だいたい「○○と戦えてよかった」「今度はやってやるぜ」といったタンカを各人が叫んでいく。この極めて演出過剰な時間に、プロレスの強みがあるように思った。
 誰と誰が戦うかはドラマの想像において極めて重要な要素だが、ブッキングは基本的に運営の仕事であり、レスラーが直接介入する部分ではないだろう。運営に与えられたお膳立てを、どうやってドラマに還元していくかがレスラーの仕事で、そこでマイクパフォーマンスが極めて重要な役割を果たしている。
 マイクを一本挟むことで、過去の試合と今の試合が繋がり、次の試合への布石になる。文脈が幹のように太くなっていくから、たくさん観て、知っている人の方がひとつの試合にのめり込める。
 もちろんこうした文脈はありとあらゆるエンタメやスポーツに企まずして存在するものだが、それを人工的に作り上げていく手際に驚いた。
 そして、具体的に何を話していたかは若干ぼんやりしているのだが、観ていて強く感じたのは、このマイクパフォーマンスでの言葉がレスラーたちの自己像の形成と深く関わっているという点である。
 マイクパフォーマンスでレスラーたちは、自分を大きく見せる言葉を使いながら、自身の試合に対する向きあい方を大勢の前でプレゼンする。
 それらの言葉はあくまでリングの中のキャラクターのためのものだが、その言葉に説得力を与えるためには、中の人はキャラクターを支えるための強固な自己像を持たなくてはいけない。それは単純な身体的強さと、それを生み出すための日々の練習でもあるだろうし、魅力的なキャラクターを演じるための精神的強さでもあるだろう。
 思わずヒップホップのパンチラインが頭の中で流れた。

「役作りじゃなくてこれは生き様」BAD HOP / Kawasaki Drift

「言葉通り生きられないけれど、言葉に近づくよう生きなさいでしょう?」サイプレス上野とロベルト吉野 / マイク中毒 pt.3 逆 feat. STERUSS

 そうだよな。人前に立った時に発する言葉の責任に支えられて、自分の生き方や姿が形作られていくんだよな……。そして、観客はその言葉に追いつこうとする姿を見てぐっときたり励まされたりするんだよな。うん、アイドルでもさんざん見たな。これは、みんな好きになるに決まってるやつだ。
 しかし、これが毎試合の演出の中に組み込まれているという構造がヤバい。やる方は大変だけど、客にとっては中毒性がめちゃくちゃ高そう。
 ドルオタやラッパーにプロレス好きが多い理由がよくわかった。文脈とキャラクターと生き様の過剰投入。サブカルチャーにおける快楽の幕の内弁当みたいなもんだ。深く納得したし、単純に楽しかった。
 ほかには、口が悪くてもいいところが気持ちよかった。「ふざけんなよ」「クソ野郎」なんて言葉遣いで喜ばれる職業なかなかないのでうらやましい。あとは、衣装が派手なので、自分も派手な服を着たくなる。

 私も腹筋を割らなくてはいけない。

 

2024年2月17日 『STARDOM in KORAKUEN 2024 Feb.2』 – スターダム✪STARDOM (wwr-stardom.com)※公式の試合レポ

 

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 Mさんが推しのスターライト・キッドのために作ったスケッチブックを撮影させてもらいました。

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近くにいても遠い 2024年1月中の友坂麗

 久々に友坂麗さんを観たら、見たことのない境地に達していてびっくりしてしまった。

 

 一言でいうと、踊らない、見つめない演目だった。

 踊らない、見つめない演目自体は珍しくはないのだけど、友坂さんのステージは初めて観るものだった。

 

 新作の「春よ来い~縁~」は、有名なポップスを中心に着物姿の友坂さんがゆっくりと脱いでいく、シンプルな演目。

 踊らないと書いたが、ベッドに入るまではいつも通り、丁寧で余裕のある舞を見せてくれる。柔らかいしぐさで布を操り、順繰りに着物を脱いで、盆に入る。

 通常ベッドでは「身体を見せつける」演出が採用されることが多いけど、このステージでの友坂さんは盆の上に座り込み、時たまゆっくりと身体を動かすだけ。

 身体や空気の振動に心を揺り動かされるという体験が、踊りを見ることだと漠然と思っていたから、友坂さんのベッドにびっくりしてしまった。

 演目によっては、ひるんでしまうほどまじまじとこちらを見つめてくれる目も、どこに定まるわけでもなく、ゆっくりと宙を見回している。誰かを見つめるわけでもない、しかし、遠いところを見ているというわけでもない不思議な視線。

 ずっと優しく微笑んでいるけれど、それが「客」というサービスの対象に向けたものという気がしない。現象としてはお金を払ってこの場にいる人たちのために微笑んでいるのだけど、誰かを接待したり、迎え入れたりするための笑みではない。

 これまでに知っていたダンスの快感と違った形式で作られていて、それなのに目が離せない。そして、観ているとなんだか心が満たされる思いがする。

 言語化できない不思議な時間だった。

 

 後日、文藝の2024年春季号を読んでいたら、伊藤亜紗×羽田圭介の対談の中にこんな文章があった。

 

「伊藤 ウルフがスペイン風邪にかかったときに書いた短いエッセイですね。元気な人は町で戦っている。病気の人は横になって寝ている。垂直と水平、両者に見える世界は全然違うという話です。 ウルフが横になって見ているのが空の景色なんですね。 空にいろんな雲が生まれては消えていくけれども、何の意味もないし、何の蓄積もない。自然は私にまったく興味がなくて、そんな自然を見て人間は心を癒されるのだ、とウルフは言います。 最近は傾聴や寄り添いが注目されて、もちろんそれも大事なんですが、自分に興味がないものによってこそ本質的なケアが行われるということも、大事だし面白いと私は思うんです。」

 

 そういえば、緑の多い公園でぼんやりしている時の感覚は、あのベッドを見ていた時の感覚と少し近いかもしれない。

 ストリップを自然と結び付けて形容するのは珍しいことではない。ただ、そういう時は「生命力にあふれている」「人間の本来の姿」などという、力強さを喚起させる言葉が使われることが多いように思う。友坂さんの年相応に緩んだ身体の柔らかさには、人を圧倒するタイプの強度はない。どちらかというと、安心させてくれる。それなのに分け合えない、分け与えない感じ。

 『イルミナ』の創刊号で、半田なか子さんは友坂さんを語るのに「さくらのはなって、さわってもさわっても、とおいかんじがする」という大島弓子作品の言葉を引いていた。

 改めて、近くにいても遠い人だと思った。

 

shiroibara.booth.pm

 

 余談。

 私が見始めた2017年頃から現在まで、踊り子は1日4回の出番のうちに、2つの演目を出す人がほとんどだ。

 それは客を飽きさせない、飽きられないためのサービスで、友坂さんも地方に行った時なんかは1日4つの演目を出すことがある。

 客も大体それに慣れて当たり前だと思っているけど、たまに昔から観ている人が「1個出しで1つの演目を深めていくのもいいものなのに」とぼやくのを聞いていた。

 今回の演目は1月頭からの20日間、毎日同じものを出していて、しかもこんなことを書いていて、それもかなりびっくりした。

 

 

 あんまりそういう大きな言葉を使わない人という印象があったからだ。でも、たしかにそういう気持ちになるのが理解できるステージだったと思う。

 

 後日こう書いていたのも友坂さんらしい。

 あの踊らない演目を凝視して味わえるのが、膨大な量の踊りを観ているスト客だというのも面白いし、みんな観る力がすごいと思う。

止められる人いないもんね

他人の内面を勝手にどうこう言うの人としてヤバいのはわかってるけど、印象論。

大森さん、いまだに自分は周囲に愛されてないと思ってるのかな。

ファンのお葬式に駆けつける大森さんと、生きづらさを抱えた子のDMにはげましの言葉を送ってた大森さんと、NHKの自殺防止番組で歌ってた大森さんを知ってるから、ZOC以降の大森さんがよくわからなかったんですよね。

でも、あれをすべて「人に愛される自分でいたくて一生懸命」だったと思うと一貫性がある。

愛されたいから、好いてくれる人のためならやりすぎなくらいやろうとする。

そういえば、神様やろうとしてたこともありましたね。

あの頃にお互いが交わした愛情も、別に嘘じゃないと思うんだけど、今の彼女の「アイドルやってみんなに愛されたい」という渇望を見ていると、足りてなかったのかと感じます。

でも、「もっとかわいくなりたい。より愛される存在になりたい」に、「そうじゃないと価値がない」がへばりついてるように見える。

大森さん、ZOCがらみで「メンバーの誰よりがんばってる」「曲を作るのは私」みたいなこと言ってるらしいけど、そんな価値のプレゼンで自分より若くて経験値のない子と張り合っても……と思ってしまった。

巫まろが「ZOCでなければ価値がない」と言われたらしいけど、それほんとなら「大森靖子でない私に価値がない」の裏返しなんじゃないかな。

そもそもすべての女の子を救いたいみたいなこと言ってたのに、メンバーに「私はメンバーよりあれだし、これだしで価値がある」って言うのめちゃくちゃでしょ。

あんなにいい曲たくさん作れて、なんだかんだで人気もあって。それこそ身体壊すくらい活動してて。なのに自分に自信がないのは相当キツいとは思うけど。

それがパワハラの理由にはなんないですよ。

大森さん、立ち止まるべきですよね。

本当に、仲間がきれいさっぱりいなくなって、周囲が彼女に依存してる人だけになる前に。

でも、止められる人いないんだろうなあ。

穴の多い家父長制批判『親なるもの 断崖』

 北海道の幕西遊郭を舞台に、戦前戦後の貧農出身の女性たちの悲劇を描いたマンガです。

 芸妓として成りあがる武子、人気女郎になるお梅、そして私娼になる道子。

 醜女の道子が女郎になりたいと泣きながら懇願する場面や、その道子がボロボロの体のまま放置されるショッキングな場面を切り取ったバナー広告が話題になり、宙出版から2015年に復刻。その後、遊郭を語るための一助になる作品としてしばしば引き合いに出されています。復刻当時に友人から借りた記憶がありますが、当時の印象を正確には覚えておらず、悲惨なことがたくさん起こるマンガだという印象が漠然と残っていました。

 

 その後、松沢呉一が本作を批判していたことを知り、自分の中での評価を棚上げにしていましたが、今回マンガワンというアプリで配信されることになり、久々に再読しました。

 

『親なるもの 断崖』はポルノである | 松沢呉一のビバノン・ライフ - Part 2

 

 改めて読んでみて、たしかにいろいろ批判すべき点が多いと感じました。私は遊郭の歴史に詳しくないので、史実との違いについては上の松沢の文章を読んでください。今回指摘するのは、作品全体を通して感じた思想的な矛盾についてです。

 本作は、前半は遊郭で働く女性たちの悲惨な生活を中心に進みます。しかし、中盤、社会運動を行いながらお梅と情を交わす聡一という青年が現れてから、遊郭での出来事と並行し、太平洋戦争の激化に翻弄される社会の有様を描くようになっていきます。

 惨殺される反政府主義者。軍需産業で潤う室蘭の町。強制連行で連れて来られ、亡くなった鉄工所の労働者。空襲で亡くなる市井の人々。

 第8話には「(前略)絶対的な家父長制度下の男尊女卑の時代である」というナレーションもあり、明確に女性搾取や戦争と、家父長制の関係を書き出そうとしています。

 遊郭という舞台も、女性のモノ化に対する作者の怒りを表現し、家父長制度を批判するために選択されたものなのでしょう。

 しかし、家父長制批判を前提として読むと、本作は不完全な作品だと感じました。

 家父長制の基本である家制度は、子どもに権力を相続させることで、その富や権力を維持していくという構造になっています。

 「父」は権力の継承のために「実の息子」を必要とし、息子を誕生させるために「子を産む女」を必要とする。家制度が支えているのはこうした権力の継承の構造であり、その中で女性は「継承者を生むための性」として扱われてきました。こうした制度の中では、「子ども」も「女性」も一種の資産であり、時に富を支えるための道具として扱われます。

 家父長制が、男性の権力維持のための制度であり、その増長の最悪の結果の一つが戦争である。本作が描こうとした主題の一つはここにあると言っていい。

 しかし、振り返ってみるとこの試みが成功しているとは言い難いように思います。本作のそうした意図を示す部分は登場人物の説明的な語りかナレーションに寄っており、ドラマの中ではその構造をうまく描くことができていません。

 ドラマの中で私たちの心に残るのは、搾取される女郎、拷問される反政府主義者、戦時下で翻弄される子どもたちの姿です。犠牲者の姿ばかりに焦点が当たってしまうと、読み手がその背景にある制度への疑問にたどりつけません。

 産むこと、結婚することに対する洞察の甘さも気になりました。

 女郎という職業ゆえに子どもを育てることを許されず、我が子を殺されてしまった武子が、お梅に対し「子供を産むのや」と語りかける場面は、本作の印象的な場面の一つです。おそらく、感動する読者も多いでしょう。

 家父長制のもとでは「子を産み育て、家に奉仕する女」と、「性的欲求を満たすための女」が分離されています。そのような社会において、性的欲求を満たすための女が産み育てることを取り戻す流れに、意味がないとは思いません。しかし、その後の流れを見ると、作者は家族愛をもって家父長制を乗り越えようとしているように感じられ、それが結果的には家制度の存続を肯定してしまったように感じました。

 お梅の出産以降、本作の主題はお梅が娘の道生にそそぐ愛についての物語と、太平洋戦争下を生き抜く道生の物語に絞られていきます。

 差別と暴力に翻弄される道生は、最終的に幼馴染の男性と結婚し、物語は2人の結婚式の様子で幕を閉じます。戦後民主主義的な思想を共有したカップルが結ばれるという意味で、ほほえましい安心感はあるのですが、「家」の中身が愛のある家族になっただけで、婚姻制度は存続しているという流れには疑問を持たざるを得ませんでした。

 結果として「よい婚姻」と「悪い婚姻」があるという見せ方になっているし、「家族」という枠組みの価値を強く強調したことで、家制度・婚姻制度という構造への批判が曖昧になっています。

 こういった終わり方をするのであれば、せめて史実を脚色せずに完全なフィクションとして描いてほしかった。これでは現実に遊郭で苦しんだ人々が、フィクションの「よい婚姻」の枕のように見えてしまいます。

 あとは、こうした遊郭の過剰な物語化とセックスワーカー差別についてももっと述べるべきことがあると自覚していますが、それはもう少しうまく人に伝えられるようになってからにしたいと思います。

 武子と遊郭の女将の顛末なんかは人生の複雑さを感じられていい描写だと思うんですけどね。それにしてもマンガワンのコメント欄の「最初は遊郭の話とか面白く読んてだけど途中から典型的なプロパガンダ漫画に成り下がってるどこが名作だよ駄作だよ駄作」というコメントはひどい。このコメントを書いた人にとっての「面白く」ってどういうことなんだろうか。

 余談ですが、家父長制と戦争の関係については『オメガ・メガエラ』がうまくマンガに落とし込んでいます。この作品もちゃんと語りたいなあ。