ホンのつまみぐい

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近くにいても遠い 2024年1月中の友坂麗

 久々に友坂麗さんを観たら、見たことのない境地に達していてびっくりしてしまった。

 

 一言でいうと、踊らない、見つめない演目だった。

 踊らない、見つめない演目自体は珍しくはないのだけど、友坂さんのステージは初めて観るものだった。

 

 新作の「春よ来い~縁~」は、有名なポップスを中心に着物姿の友坂さんがゆっくりと脱いでいく、シンプルな演目。

 踊らないと書いたが、ベッドに入るまではいつも通り、丁寧で余裕のある舞を見せてくれる。柔らかいしぐさで布を操り、順繰りに着物を脱いで、盆に入る。

 通常ベッドでは「身体を見せつける」演出が採用されることが多いけど、このステージでの友坂さんは盆の上に座り込み、時たまゆっくりと身体を動かすだけ。

 身体や空気の振動に心を揺り動かされるという体験が、踊りを見ることだと漠然と思っていたから、友坂さんのベッドにびっくりしてしまった。

 演目によっては、ひるんでしまうほどまじまじとこちらを見つめてくれる目も、どこに定まるわけでもなく、ゆっくりと宙を見回している。誰かを見つめるわけでもない、しかし、遠いところを見ているというわけでもない不思議な視線。

 ずっと優しく微笑んでいるけれど、それが「客」というサービスの対象に向けたものという気がしない。現象としてはお金を払ってこの場にいる人たちのために微笑んでいるのだけど、誰かを接待したり、迎え入れたりするための笑みではない。

 これまでに知っていたダンスの快感と違った形式で作られていて、それなのに目が離せない。そして、観ているとなんだか心が満たされる思いがする。

 言語化できない不思議な時間だった。

 

 後日、文藝の2024年春季号を読んでいたら、伊藤亜紗×羽田圭介の対談の中にこんな文章があった。

 

「伊藤 ウルフがスペイン風邪にかかったときに書いた短いエッセイですね。元気な人は町で戦っている。病気の人は横になって寝ている。垂直と水平、両者に見える世界は全然違うという話です。 ウルフが横になって見ているのが空の景色なんですね。 空にいろんな雲が生まれては消えていくけれども、何の意味もないし、何の蓄積もない。自然は私にまったく興味がなくて、そんな自然を見て人間は心を癒されるのだ、とウルフは言います。 最近は傾聴や寄り添いが注目されて、もちろんそれも大事なんですが、自分に興味がないものによってこそ本質的なケアが行われるということも、大事だし面白いと私は思うんです。」

 

 そういえば、緑の多い公園でぼんやりしている時の感覚は、あのベッドを見ていた時の感覚と少し近いかもしれない。

 ストリップを自然と結び付けて形容するのは珍しいことではない。ただ、そういう時は「生命力にあふれている」「人間の本来の姿」などという、力強さを喚起させる言葉が使われることが多いように思う。友坂さんの年相応に緩んだ身体の柔らかさには、人を圧倒するタイプの強度はない。どちらかというと、安心させてくれる。それなのに分け合えない、分け与えない感じ。

 『イルミナ』の創刊号で、半田なか子さんは友坂さんを語るのに「さくらのはなって、さわってもさわっても、とおいかんじがする」という大島弓子作品の言葉を引いていた。

 改めて、近くにいても遠い人だと思った。

 

shiroibara.booth.pm

 

 余談。

 私が見始めた2017年頃から現在まで、踊り子は1日4回の出番のうちに、2つの演目を出す人がほとんどだ。

 それは客を飽きさせない、飽きられないためのサービスで、友坂さんも地方に行った時なんかは1日4つの演目を出すことがある。

 客も大体それに慣れて当たり前だと思っているけど、たまに昔から観ている人が「1個出しで1つの演目を深めていくのもいいものなのに」とぼやくのを聞いていた。

 今回の演目は1月頭からの20日間、毎日同じものを出していて、しかもこんなことを書いていて、それもかなりびっくりした。

 

 

 あんまりそういう大きな言葉を使わない人という印象があったからだ。でも、たしかにそういう気持ちになるのが理解できるステージだったと思う。

 

 後日こう書いていたのも友坂さんらしい。

 あの踊らない演目を凝視して味わえるのが、膨大な量の踊りを観ているスト客だというのも面白いし、みんな観る力がすごいと思う。