ホンのつまみぐい

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大森靖子×根本宗子「夏果て幸せの果て」6月9日

大森靖子×根本宗子 夏果て幸せの果て

 最近よくお名前を耳にする演出家の根本宗子と大森靖子のコラボ舞台。

 ピンク色で飾られた部屋で、家を出ていった恋人の電話を待ち続ける「大森靖子」と名乗る女性と、エアコンが効かなくなったコンビニの控え室で繰り広げられる3人の女性アルバイトたち。彼女たちによる、不快指数の高い夏の日の、パッとしない日常が交互に語られる。

 「大森靖子」を演じるのは根本宗子。そして、「大森靖子」が時折めぐらせる妄想のひとつとして登場する「大森靖子B」を大森靖子が演じる。

 「大森靖子」は、自分が追い出した恋人に電話をかけ続け、ごろごろベッドで転がりながら、恋人(鳥肌実)と美しい浮気相手(城川もね)の情事を妄想する。

 コンビニでは、動かないエアコンのために熱中症で倒れるバイト・イマオカ(大竹沙絵子)が登場する。バイトリーダーのノザキ(あやか)が休むように促すが、自尊心の低いイマオカは「シフトですから」を繰り返し、頑なに休もうとせず、「こういう事態にも対処できなくては。アルバイトですから!」と的外れな事をいい、同じバイトのウサミ(相楽樹)を呆れさせる。

 「大森靖子」の妄想の中には、大森靖子の楽曲「夏果て」に登場する「生活保護ではしからはしまで三つ編みをした女」(梨木智香)も登場し、おっさんと美少女の物語もその歌詞に呼応するように動いていく。

 しょうもない現実としょうもない妄想の間を行き来するうちに、舞台は突然意外な方向に……。

 ちまちま感想を。(ネタバレあり!)

・観終わってから、以前に大森靖子を「昔話の中の人のよう」と表現したことを思い出した。そして、舞台の上の大森靖子は妖精のようだったので、根本宗子にとっての大森靖子は妖精のような、御守りのようなものなのだろうと単純に考えた。

 大森靖子は作中で自作の歌を4曲、ある歌謡曲を1曲歌う。妄想の中の自我として登場する大森靖子は、「大森靖子」をつっついたりからかったりしながら、優しく励ます役どころだ。その配役を観ながら「もしもいつか子供がうまれてもギターのほうがかわいいんだもの」と歌う大森靖子が、博愛の人であることを改めて思い出した。

 何気なくお腹をさする瞬間があって、ちょっとドキッとした。・イマオカの自己評価の低さ故、過剰に仕事にストイックであろうとし、余計なことまで引き受けたがる様が、昔の自分のようでちょっと見ていてつらかった。

 ひとつ印象的だったコンビニでの場面。暑さのあまり体調を崩したノザキが、控え室に駆け込んで嗚咽する。大げさにあえぐノザキ。しかし、そのインパクトをかき消すようにイマオカも体調を崩し、控え室に飛び込んでくる。そこで、イマオカは「ごめんなさい、ノザキさんが主役になれる時間だったのに」と言う。

 お話の主題はおそらくこれだろう。誰もが、日常をもっと大切に感じたいと思っているのだ。物語の中で、しんどい日常にも輝く瞬間があること、からまった関係がすっと優しく収束していくこと、大切な人のために自分の仕事をがんばること、それぞれが肯定されていく。イマオカが30歳、ノザキが31歳、ウサミが18歳という設定に、大森靖子セカンドアルバム「絶対少女」に、彼女自身が寄せた「全ての女の子を肯定したいと思いました」という言葉を思い出した。

 ただ、これがすべて根本宗子の妄想だと種明かしして、演出の人までを舞台に登場させる最後の決着の付け方はちょっと乱暴ではないか。もちろん、そう言われるのは覚悟の上で、あえていろいろ大胆に遊んでいるのだろうけど、すっきりと飲み込めなかった。

 だから、最初に浮かんだ感想は「もっとうまく騙してほしかった」だった。

・城川もねが本当に美しく、陶器のような肌という形容詞はこういう女の子のために使うのかと思った。近くで見たかった。まだ現役女子高生とかどういうことや……。鳥肌実とキスしようとする場面があって、思わず「ダメ!」と思った。しょうもないおっさんに飼われつつ、おっさんを翻弄する話は榎本ナリ子が昔描いてたけど、わりと女の子には普遍的な妄想なのだろうか。

・全体的にあまり観客を支配しようとしない演技がゆるい空間にあっていた。ただ、妄想の一部であるはずの大森靖子が、あまり演劇的な過剰さのないふわっとした演技なのに対し、コンビニの場面がいかにも「芝居!」という感じなのがなんだか不思議な感じだった。鳥肌実が素で自虐ネタを語る場面があり、「ビジュアル系演説家としてデビューしましたが、近頃すっかりはげ散らかしており……」という言葉に笑った。

・劇場に来ている女の子は「自分の好きな服を好きなように着ている子」が多くて、見ていて楽しかった。男性アイドル現場は割と「平均的な女の子っぽい格好」の子か、露出多めの子が多いので、空気の違いを感じる。まあ、あちらは女子中高生も多いので一概に比べられないだろうけど。

 しがないコンビニの店員たちの奮闘の下りはけっこう感動的なのだけど、実際に見に来ている女の子たちはきちんとおしゃれが出来るような賢そうな子が多くて、そのギャップがちょっと切なかった。もちろん普遍的な話だし、コンビニバイトが芝居を見に行かないというわけではないのだけど、舞台で素材として扱われる人たちと、それを実際に観賞する人たちの間の距離が何となく気になってしまった。(作り手は自覚しているかもしれないけど)

 大森靖子がよく書いている「メジャーになること」の意味を何となく思い出した。以下はブログからの引用。

トップニュース以外全部サブカルチャーだよな、検索しなきゃ出てこないんだから。
案外僕の、君の、大好きなアニメも、音楽も、スポーツ選手も、漫画も、映画も、僕の君の世界以外では全然有名じゃないんですよね。
届かない響かない変わらない。

多様化はカテゴライズの差別化を推し進めて、肝心な一人一人の理解の多様化を狭めている可能性だってある。



だから一度メジャーにならなきゃ意味がない。

あまい:ご報告

・千秋楽だったので、カーテンコールで演者の皆さんがポケットティッシュを投げてくれた。ほそっこい紫の棒は舞台演出のひとつとして観客に配られたサイリウム。久々に手にしたけど、やはりはかなげで愛おしい。