ホンのつまみぐい

誤字脱字・事実誤認など遠慮なくご指摘ください。

そりゃみんな好きになるわと思った女子プロレス観戦「STARDOM in KORAKUEN 2024 Feb.2」

f:id:hontuma4262:20240314224624j:image

 やっと女子プロレスを観た。

 なぜやっとなのかというと、私がこれまで接してきたさまざまな文化が、しばしばプロレスと交差していたからだ。

 梶原一騎とプロレスは切り離せない深い縁があるし、ノンフィクションではプロレスは人気の題材だ。

 ももいろクローバーZアップアップガールズ(仮)もリングの上でライブをやらされていたし、ミスiD開催時に唯一写真を買った伊藤麻希は今東京女子プロレスで活躍している。(ももクロ、アプガそれぞれもっと濃い縁があると思いますが、あんまりくわしくないので言い切れる範囲で)

 で、この間アイドルオタクの人に「ドルオタ辞めた人たちは何のオタクをやってるんですか」と聞いたら、二人が「プロレスとか〇〇とか」と答えていた。

 ヒップホップの人たちもプロレス好きな人が多い印象だし、こういうまとめて「サブカル」という箱に入れられるような文化とプロレスの間には、きっと何か通ずるものがあるに違いない。

 で、観て思った。「そりゃみんな好きになるわ」と。

 今回の観戦のきっかけはストリップが縁で知り合ったMさんだった。女子プロレス団体スターダムに大はまり中のMさんが「アテンドしたい」と申し入れてくれたのだ。後楽園ホールにストリップ好きの女性が大勢集合。

 土曜日昼からの興行。タッグマッチとシングルマッチをあわせて16試合。

 まず驚いたのは、身体的負荷が想像以上に大きいことだ。映像では何度かプロレスを観ていたけれど、現場にいて驚くのはリングにたたきつけられる際の音の大きさ。ドーン!バーン!という音の大きさと振動が、全身のダメージを想像させる。

 跳び蹴りもガッツリ頭に当たるし、歯ぁ飛びません? ボクサーにおけるパンチドランカー的なものはないのか? いや、ないはずないな。サイプレス上野がよくプロレスラーに対して敬意の言葉を述べているけど、そりゃこんな技を受けて立ち上がるってだけでリスペクトの対象になりますわ。

 そして、少し見慣れてから驚くのがその複雑な快楽の構造だ。たとえば、柔道なら、快楽の終点は技が決まった瞬間だ。両者とも相手に技を決めさせないために全力を尽くし、自身が技をかけるために必死で相手を崩そうとする。技が決まるまでの攻防や緊張にはわかりやすい快楽はなく、技が決まった瞬間が快楽の頂点と言える。しかし、柔道では一度も華々しく技が決まらないまま、試合が終わることは珍しくない。

 対して、プロレスでは技が試合の間に何度も決まる。

 そもそも、プロレスの大技と言われるような、ポールの上から相手に飛びかかるような技や、抱え上げた相手を思い切りリングに叩きつけるような技は、相手の協力なくして成立しない。だから、試合中にしばしば「相手が技をかけるのを待つ時間」が生まれる。
 逃げればいいのに、なぜ技を受けるのか? 下手に逃げるとお互いがケガをするという面ももちろんあるけれど、基本的にはプロレスが興行であり、エンターテイメントだからだろう。プロレスでは予定調和の快楽を、戦う側も観ている側も求めている。
 しかし、一方で現場で強く感じたのは、ただ技が決まる姿をレスラーも観客も求めていないという事実だ。レスラーがやりたいのも観客が観たいのも稽古の再現ではない。皆が求めているのは過程の豊かさを経ての予定調和なのである。
 ここでヒールという存在の意義も同時に理解できた。
 ヒールはともすればシンプルな格闘の連続になりかねないリングに破調をもたらす。その破調は笑いの形を取ることもあるし、反則技を使っての逆転のこともある。
 会場と相手の空気を読み取り、アイデアと身体で試合の流れに破調を生み、過程の豊かさを演出する。あまりにも知的で大切。なるほど、ヒールとベビーフェイスという形式が固定化されるのもよくわかる。
 協働的な営みであるにも関わらず、勝者敗者の存在する戦いでもある。セッションであり、スポーツでもある。フリージャズのセッション、MCラップバトル、ストリートダンスバトル……。さまざまな分野で観てきたしのぎあいの姿を思い出した。

 また、違った意味で印象的だったのが試合後のマイクパフォーマンスだ。
 だいたい「○○と戦えてよかった」「今度はやってやるぜ」といったタンカを各人が叫んでいく。この極めて演出過剰な時間に、プロレスの強みがあるように思った。
 誰と誰が戦うかはドラマの想像において極めて重要な要素だが、ブッキングは基本的に運営の仕事であり、レスラーが直接介入する部分ではないだろう。運営に与えられたお膳立てを、どうやってドラマに還元していくかがレスラーの仕事で、そこでマイクパフォーマンスが極めて重要な役割を果たしている。
 マイクを一本挟むことで、過去の試合と今の試合が繋がり、次の試合への布石になる。文脈が幹のように太くなっていくから、たくさん観て、知っている人の方がひとつの試合にのめり込める。
 もちろんこうした文脈はありとあらゆるエンタメやスポーツに企まずして存在するものだが、それを人工的に作り上げていく手際に驚いた。
 そして、具体的に何を話していたかは若干ぼんやりしているのだが、観ていて強く感じたのは、このマイクパフォーマンスでの言葉がレスラーたちの自己像の形成と深く関わっているという点である。
 マイクパフォーマンスでレスラーたちは、自分を大きく見せる言葉を使いながら、自身の試合に対する向きあい方を大勢の前でプレゼンする。
 それらの言葉はあくまでリングの中のキャラクターのためのものだが、その言葉に説得力を与えるためには、中の人はキャラクターを支えるための強固な自己像を持たなくてはいけない。それは単純な身体的強さと、それを生み出すための日々の練習でもあるだろうし、魅力的なキャラクターを演じるための精神的強さでもあるだろう。
 思わずヒップホップのパンチラインが頭の中で流れた。

「役作りじゃなくてこれは生き様」BAD HOP / Kawasaki Drift

「言葉通り生きられないけれど、言葉に近づくよう生きなさいでしょう?」サイプレス上野とロベルト吉野 / マイク中毒 pt.3 逆 feat. STERUSS

 そうだよな。人前に立った時に発する言葉の責任に支えられて、自分の生き方や姿が形作られていくんだよな……。そして、観客はその言葉に追いつこうとする姿を見てぐっときたり励まされたりするんだよな。うん、アイドルでもさんざん見たな。これは、みんな好きになるに決まってるやつだ。
 しかし、これが毎試合の演出の中に組み込まれているという構造がヤバい。やる方は大変だけど、客にとっては中毒性がめちゃくちゃ高そう。
 ドルオタやラッパーにプロレス好きが多い理由がよくわかった。文脈とキャラクターと生き様の過剰投入。サブカルチャーにおける快楽の幕の内弁当みたいなもんだ。深く納得したし、単純に楽しかった。
 ほかには、口が悪くてもいいところが気持ちよかった。「ふざけんなよ」「クソ野郎」なんて言葉遣いで喜ばれる職業なかなかないのでうらやましい。あとは、衣装が派手なので、自分も派手な服を着たくなる。

 私も腹筋を割らなくてはいけない。

 

2024年2月17日 『STARDOM in KORAKUEN 2024 Feb.2』 – スターダム✪STARDOM (wwr-stardom.com)※公式の試合レポ

 

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

 

 

 

 

 

 

 Mさんが推しのスターライト・キッドのために作ったスケッチブックを撮影させてもらいました。

f:id:hontuma4262:20240314224710j:image
f:id:hontuma4262:20240314224714j:image

近くにいても遠い 2024年1月中の友坂麗

 久々に友坂麗さんを観たら、見たことのない境地に達していてびっくりしてしまった。

 

 一言でいうと、踊らない、見つめない演目だった。

 踊らない、見つめない演目自体は珍しくはないのだけど、友坂さんのステージは初めて観るものだった。

 

 新作の「春よ来い~縁~」は、有名なポップスを中心に着物姿の友坂さんがゆっくりと脱いでいく、シンプルな演目。

 踊らないと書いたが、ベッドに入るまではいつも通り、丁寧で余裕のある舞を見せてくれる。柔らかいしぐさで布を操り、順繰りに着物を脱いで、盆に入る。

 通常ベッドでは「身体を見せつける」演出が採用されることが多いけど、このステージでの友坂さんは盆の上に座り込み、時たまゆっくりと身体を動かすだけ。

 身体や空気の振動に心を揺り動かされるという体験が、踊りを見ることだと漠然と思っていたから、友坂さんのベッドにびっくりしてしまった。

 演目によっては、ひるんでしまうほどまじまじとこちらを見つめてくれる目も、どこに定まるわけでもなく、ゆっくりと宙を見回している。誰かを見つめるわけでもない、しかし、遠いところを見ているというわけでもない不思議な視線。

 ずっと優しく微笑んでいるけれど、それが「客」というサービスの対象に向けたものという気がしない。現象としてはお金を払ってこの場にいる人たちのために微笑んでいるのだけど、誰かを接待したり、迎え入れたりするための笑みではない。

 これまでに知っていたダンスの快感と違った形式で作られていて、それなのに目が離せない。そして、観ているとなんだか心が満たされる思いがする。

 言語化できない不思議な時間だった。

 

 後日、文藝の2024年春季号を読んでいたら、伊藤亜紗×羽田圭介の対談の中にこんな文章があった。

 

「伊藤 ウルフがスペイン風邪にかかったときに書いた短いエッセイですね。元気な人は町で戦っている。病気の人は横になって寝ている。垂直と水平、両者に見える世界は全然違うという話です。 ウルフが横になって見ているのが空の景色なんですね。 空にいろんな雲が生まれては消えていくけれども、何の意味もないし、何の蓄積もない。自然は私にまったく興味がなくて、そんな自然を見て人間は心を癒されるのだ、とウルフは言います。 最近は傾聴や寄り添いが注目されて、もちろんそれも大事なんですが、自分に興味がないものによってこそ本質的なケアが行われるということも、大事だし面白いと私は思うんです。」

 

 そういえば、緑の多い公園でぼんやりしている時の感覚は、あのベッドを見ていた時の感覚と少し近いかもしれない。

 ストリップを自然と結び付けて形容するのは珍しいことではない。ただ、そういう時は「生命力にあふれている」「人間の本来の姿」などという、力強さを喚起させる言葉が使われることが多いように思う。友坂さんの年相応に緩んだ身体の柔らかさには、人を圧倒するタイプの強度はない。どちらかというと、安心させてくれる。それなのに分け合えない、分け与えない感じ。

 『イルミナ』の創刊号で、半田なか子さんは友坂さんを語るのに「さくらのはなって、さわってもさわっても、とおいかんじがする」という大島弓子作品の言葉を引いていた。

 改めて、近くにいても遠い人だと思った。

 

shiroibara.booth.pm

 

 余談。

 私が見始めた2017年頃から現在まで、踊り子は1日4回の出番のうちに、2つの演目を出す人がほとんどだ。

 それは客を飽きさせない、飽きられないためのサービスで、友坂さんも地方に行った時なんかは1日4つの演目を出すことがある。

 客も大体それに慣れて当たり前だと思っているけど、たまに昔から観ている人が「1個出しで1つの演目を深めていくのもいいものなのに」とぼやくのを聞いていた。

 今回の演目は1月頭からの20日間、毎日同じものを出していて、しかもこんなことを書いていて、それもかなりびっくりした。

 

 

 あんまりそういう大きな言葉を使わない人という印象があったからだ。でも、たしかにそういう気持ちになるのが理解できるステージだったと思う。

 

 後日こう書いていたのも友坂さんらしい。

 あの踊らない演目を凝視して味わえるのが、膨大な量の踊りを観ているスト客だというのも面白いし、みんな観る力がすごいと思う。

止められる人いないもんね

他人の内面を勝手にどうこう言うの人としてヤバいのはわかってるけど、印象論。

大森さん、いまだに自分は周囲に愛されてないと思ってるのかな。

ファンのお葬式に駆けつける大森さんと、生きづらさを抱えた子のDMにはげましの言葉を送ってた大森さんと、NHKの自殺防止番組で歌ってた大森さんを知ってるから、ZOC以降の大森さんがよくわからなかったんですよね。

でも、あれをすべて「人に愛される自分でいたくて一生懸命」だったと思うと一貫性がある。

愛されたいから、好いてくれる人のためならやりすぎなくらいやろうとする。

そういえば、神様やろうとしてたこともありましたね。

あの頃にお互いが交わした愛情も、別に嘘じゃないと思うんだけど、今の彼女の「アイドルやってみんなに愛されたい」という渇望を見ていると、足りてなかったのかと感じます。

でも、「もっとかわいくなりたい。より愛される存在になりたい」に、「そうじゃないと価値がない」がへばりついてるように見える。

大森さん、ZOCがらみで「メンバーの誰よりがんばってる」「曲を作るのは私」みたいなこと言ってるらしいけど、そんな価値のプレゼンで自分より若くて経験値のない子と張り合っても……と思ってしまった。

巫まろが「ZOCでなければ価値がない」と言われたらしいけど、それほんとなら「大森靖子でない私に価値がない」の裏返しなんじゃないかな。

そもそもすべての女の子を救いたいみたいなこと言ってたのに、メンバーに「私はメンバーよりあれだし、これだしで価値がある」って言うのめちゃくちゃでしょ。

あんなにいい曲たくさん作れて、なんだかんだで人気もあって。それこそ身体壊すくらい活動してて。なのに自分に自信がないのは相当キツいとは思うけど。

それがパワハラの理由にはなんないですよ。

大森さん、立ち止まるべきですよね。

本当に、仲間がきれいさっぱりいなくなって、周囲が彼女に依存してる人だけになる前に。

でも、止められる人いないんだろうなあ。

穴の多い家父長制批判『親なるもの 断崖』

 北海道の幕西遊郭を舞台に、戦前戦後の貧農出身の女性たちの悲劇を描いたマンガです。

 芸妓として成りあがる武子、人気女郎になるお梅、そして私娼になる道子。

 醜女の道子が女郎になりたいと泣きながら懇願する場面や、その道子がボロボロの体のまま放置されるショッキングな場面を切り取ったバナー広告が話題になり、宙出版から2015年に復刻。その後、遊郭を語るための一助になる作品としてしばしば引き合いに出されています。復刻当時に友人から借りた記憶がありますが、当時の印象を正確には覚えておらず、悲惨なことがたくさん起こるマンガだという印象が漠然と残っていました。

 

 その後、松沢呉一が本作を批判していたことを知り、自分の中での評価を棚上げにしていましたが、今回マンガワンというアプリで配信されることになり、久々に再読しました。

 

『親なるもの 断崖』はポルノである | 松沢呉一のビバノン・ライフ - Part 2

 

 改めて読んでみて、たしかにいろいろ批判すべき点が多いと感じました。私は遊郭の歴史に詳しくないので、史実との違いについては上の松沢の文章を読んでください。今回指摘するのは、作品全体を通して感じた思想的な矛盾についてです。

 本作は、前半は遊郭で働く女性たちの悲惨な生活を中心に進みます。しかし、中盤、社会運動を行いながらお梅と情を交わす聡一という青年が現れてから、遊郭での出来事と並行し、太平洋戦争の激化に翻弄される社会の有様を描くようになっていきます。

 惨殺される反政府主義者。軍需産業で潤う室蘭の町。強制連行で連れて来られ、亡くなった鉄工所の労働者。空襲で亡くなる市井の人々。

 第8話には「(前略)絶対的な家父長制度下の男尊女卑の時代である」というナレーションもあり、明確に女性搾取や戦争と、家父長制の関係を書き出そうとしています。

 遊郭という舞台も、女性のモノ化に対する作者の怒りを表現し、家父長制度を批判するために選択されたものなのでしょう。

 しかし、家父長制批判を前提として読むと、本作は不完全な作品だと感じました。

 家父長制の基本である家制度は、子どもに権力を相続させることで、その富や権力を維持していくという構造になっています。

 「父」は権力の継承のために「実の息子」を必要とし、息子を誕生させるために「子を産む女」を必要とする。家制度が支えているのはこうした権力の継承の構造であり、その中で女性は「継承者を生むための性」として扱われてきました。こうした制度の中では、「子ども」も「女性」も一種の資産であり、時に富を支えるための道具として扱われます。

 家父長制が、男性の権力維持のための制度であり、その増長の最悪の結果の一つが戦争である。本作が描こうとした主題の一つはここにあると言っていい。

 しかし、振り返ってみるとこの試みが成功しているとは言い難いように思います。本作のそうした意図を示す部分は登場人物の説明的な語りかナレーションに寄っており、ドラマの中ではその構造をうまく描くことができていません。

 ドラマの中で私たちの心に残るのは、搾取される女郎、拷問される反政府主義者、戦時下で翻弄される子どもたちの姿です。犠牲者の姿ばかりに焦点が当たってしまうと、読み手がその背景にある制度への疑問にたどりつけません。

 産むこと、結婚することに対する洞察の甘さも気になりました。

 女郎という職業ゆえに子どもを育てることを許されず、我が子を殺されてしまった武子が、お梅に対し「子供を産むのや」と語りかける場面は、本作の印象的な場面の一つです。おそらく、感動する読者も多いでしょう。

 家父長制のもとでは「子を産み育て、家に奉仕する女」と、「性的欲求を満たすための女」が分離されています。そのような社会において、性的欲求を満たすための女が産み育てることを取り戻す流れに、意味がないとは思いません。しかし、その後の流れを見ると、作者は家族愛をもって家父長制を乗り越えようとしているように感じられ、それが結果的には家制度の存続を肯定してしまったように感じました。

 お梅の出産以降、本作の主題はお梅が娘の道生にそそぐ愛についての物語と、太平洋戦争下を生き抜く道生の物語に絞られていきます。

 差別と暴力に翻弄される道生は、最終的に幼馴染の男性と結婚し、物語は2人の結婚式の様子で幕を閉じます。戦後民主主義的な思想を共有したカップルが結ばれるという意味で、ほほえましい安心感はあるのですが、「家」の中身が愛のある家族になっただけで、婚姻制度は存続しているという流れには疑問を持たざるを得ませんでした。

 結果として「よい婚姻」と「悪い婚姻」があるという見せ方になっているし、「家族」という枠組みの価値を強く強調したことで、家制度・婚姻制度という構造への批判が曖昧になっています。

 こういった終わり方をするのであれば、せめて史実を脚色せずに完全なフィクションとして描いてほしかった。これでは現実に遊郭で苦しんだ人々が、フィクションの「よい婚姻」の枕のように見えてしまいます。

 あとは、こうした遊郭の過剰な物語化とセックスワーカー差別についてももっと述べるべきことがあると自覚していますが、それはもう少しうまく人に伝えられるようになってからにしたいと思います。

 武子と遊郭の女将の顛末なんかは人生の複雑さを感じられていい描写だと思うんですけどね。それにしてもマンガワンのコメント欄の「最初は遊郭の話とか面白く読んてだけど途中から典型的なプロパガンダ漫画に成り下がってるどこが名作だよ駄作だよ駄作」というコメントはひどい。このコメントを書いた人にとっての「面白く」ってどういうことなんだろうか。

 余談ですが、家父長制と戦争の関係については『オメガ・メガエラ』がうまくマンガに落とし込んでいます。この作品もちゃんと語りたいなあ。

 

三橋順子による特別講座「歴史から買売春を考える」を横浜パラダイス会館で聞いた

 ゴールデン街が青線だったことを先週初めて知った。

 知ってしまえば、あのマッチ箱を縦にしたような、異様に狭いのに高さのある建物は風俗業以外には使いづらい。災害にも弱いだろう。

 飲食という名目で1階で客を取り、自由恋愛のていで2階で性行為をするという、法律逃れのための奇妙な風習。

 黄金町の街並みを知っていたにも関わらず、思い至らなかった鈍感さを恥ずかしく思った。

 ゴールデン街の話を聞いたのは横浜パラダイス会館で行われた特別講座「歴史から買売春を考える」だ。

 三橋順子さんによる全3回の講座は、日本における買売春の歴史について語るもの。買春業の成立から現在までを、簡潔に語ってくれた。

f:id:hontuma4262:20240127193132j:image

 個人的に印象に残ったのは、もともとは一体だった芸妓と娼妓が分離していくまでの過程と、売春防止法成立の話。

f:id:hontuma4262:20240127193139j:image

 売春防止法成立時に特殊飲食店業者の組合が反対運動をしていたというのが特に衝撃的だった。なぜ衝撃を受けたかというと、現代の日本で性風俗事業者たちが共同で反対運動する姿をイメージできないからである。

f:id:hontuma4262:20240127193147j:image

 たとえば「セックスワークにも給付金を訴訟」は、基本原告が一人で戦っている。性風俗事業者間でも裁判に対しての考えが分かれているようで、「目立ったら叩かれる」という感覚の人もいるらしい。それでも裁判なら一人でも戦えるが、社会運動や政治による現状の改革のためには、目標を同じくする者同士がある程度の数を持って働きかけなくてはいけない現実がある。

 性風俗事業者には共同体として運動を行う下地がないように見え、それが現状の困難の原因の一つであるというのは、常に感じていることだった。

 この講義では、売春防止法により買売春が違法になることで、アンダーグラウンド化していく過程が説明されていた。暴力団が管理する売春のことを、黒線と呼ぶことも初めて知った。

 性風俗業にまつわる事柄に首を突っ込んでいると、実際に違法な運営について耳にすることがある。しかし、そこには「違法なものと名指されることで、違法なことを厭わない人間の利権として利用された結果、時に搾取や人権侵害の温床となってしまう」という悪循環があるように感じた。

 また、「違法なもの」という根拠を法が提供することで、「差別」の根拠となっている現状もある。

f:id:hontuma4262:20240127193210j:image

 当事者が運動体を形成して現状の改革を訴えるというのが正攻法なのだが、違法であると名指されることにより、そうした共同体を作るのも難しくなっているという幾重にもからまった悪循環について、より明確に認識することができた。

 三橋さんはご自身で撮影した遊郭の痕跡の写真をたくさん見せてくれた。写真に写った場所の多くは、取り壊されてもう残っていないらしい。

 その中に横浜の永楽町にある「赤線」建築の痕跡についての話があった。

 横に長い建物の正面に、3つ入り口があり、側面にも1つ出入り口があるという建物で、私なぞが見てもピンとこない。

 しかし、客を迎え入れるために3つの入り口を用意し、帰りに客同士が鉢合わせないように側面に出口を一つ用意していると想像できれば、そこに「赤線」の痕跡を見ることができるのである。f:id:hontuma4262:20240127193222j:imagef:id:hontuma4262:20240127193227j:image

 講義の後は、ARTLABOOVAの蔭山ヅルさんによる若葉町ツアーがあり、ジャック&ベティに行くために数限りなく通った町の、全く知らない側面についてたくさん話を聞いた。昔、若葉町では売春をしていたトランスジェンダー女性が殺されるというひどい事件があったらしい。そのマンションを、寒空の下参加者で見つめた。

 関内はもともと埋め立て地だから地盤が弱く、震災で道にたくさんひびが入ったことも初めて知った。たしかに、ふと下を見るとコンクリ部分はともかく歩道のタイルはボロボロになっている。

 足元のことでも、見て、知っていないとわからないのだ。

 

 

年始から大災害で

f:id:hontuma4262:20240107210103j:image

 年始のおせちは地元のビストロが作っているものにしていますが、その材料に能登半島のものがたくさんあることを初めて意識しました。

 崩れた家を見ると、火事で家が焼けてしまい、その一カ月後に亡くなった祖父を思い出します。

 できることが増えたら、何か助けになることをしたいですね。

 ※写真は弟が飼い始めた猫です。