映画「この世界の片隅に」を観て、最初に頭に浮かんだのは原民喜の「夏の花」でした。
「夏の花」は原の被爆体験をもとに書かれた短編小説で、原爆投下直後の広島を歩き回る主人公の目を通し、当時の惨事が生々しく描かれています。
「夏の花」は、原爆ひいては戦争の悲惨さを訴えるために書かれたものではありますが、不思議なことに、その中に、こちらの心を揺さぶる強い情動は描かれていません。出来事のあまりの大きさに立ち尽くした人がただ自分の心の中に焼き付けられたものを描こうとした結果なのかもしれません。
鋭利で研ぎ澄まされた表現は、戦争文学としての歴史的使命を超越し、文学表現としてあまりに美しく洗練されており、その迫力に多くの人が驚くはずです。
かつて、私が尊敬するあるアニメーターは「『火垂るの墓』は何度も見ていくうちにその意味が擦り切れて背徳と官能と破壊と死みたいなビジュアル系バンドのような映画になる」というようなことを書いていました。
「火垂るの墓」と同様に、「この世界の片隅に」も、表現を磨きつくした結果として、「ある時代の特定の出来事を描いた物語」を超越し、普遍に到達することができた作品だと思います。
なにより、アニメ作品として洗練された品のいいかっこよさがたくさんあります。
私が好きなのは、人物の主観を鉛筆やクレヨン、あるいは水彩画や油彩画のような線で描く演出。特に、あるとてつもなく悲劇的な出来事に直面したさいの主人公の心理描写には、きわめて抽象的な絵作りを採用していて、その悲しみがある種これまでの現実の枠で描写しきれないとても大きなものであることを表していました。
とにかく研ぎ澄まされた鋭利な表現の多い作品なので、アニメはもちろん映画が好きな人は一度見に行ってほしいです。
追記
なんか最初の文章硬くなりすぎたので追加でぶら下げますね。
身も蓋もないこと言いますけど「家族が死んだ時のことを描写した文章」「事故や災害にあった時の文章」とかって、誰が書いたものでも、たいがい素晴らしいんですよ。びっくりするくらい研ぎ澄まされてる。
あれ何故なんですかね。当人にとって大きなことなのに、そこに気取りや意図的な嘘、あるいは遠慮が入りにくいからなのかな。もちろん例外もたくさんあるけど、「一生に何度も出来ない表現」と思うことがよくあります。
そういう切実さを作品として消化しているのが、「夏の花」や「火垂るの墓」。
「この世界の片隅に」も、そういう鋭利さのある作品なのですが、原民喜や高畑勲と違って片渕須直は戦中を生きていない。
それなのに、調べ尽くして、もうアリの逃げる隙間を塞ぐ勢いでディテールを埋めた結果として、ギラギラに研がれた表現が成立してる。本当に戦中を生きて、それを吐き出してるのかってくらい。
このこだわりと、そこから生まれた表現はやっぱり「狂気の沙汰」と呼ぶにふさわしいと思うんです。
だから、私は平和主義者のアニメ・マンガ好きなので、そういう興味から観に行っていいと思うんですが、「作家の狂気を確認するという意味で観にいくのも楽しいですよ」というのが本来言いたいことでした。片渕さん、あんまり狂うタイプの作家じゃないと思うんで、そういう意味でも貴重。よろしゅう。