※ネタバレあり。というか、観てないと何が書いてあるかわからないかも。
父親に見捨てられた異形の能楽師と、父親に死なれた琵琶法師が、組んで新しい音楽表現を作り上げるが、権力者に目をつけられ……という話。
オーラルヒストリーを収集していた芸術家が、正史を編纂しようとする権力者に蹂躙される話なので、『教育と愛国』を観たあとだと染みるものがあった。
精神の開放や革新的表現がグラムロック調の曲を通じて表現されていて、「なぜロック?能の世界にある革新を表現すればいいのに」と思っていたら、以下のような感想があって「なるほど」と思った。
個人の内的表現のロックを能楽に重ね合わせるためのアイデアとして、生まれ落ちる前から平家の亡霊に肉体が変化するほど呪われていて彼らの無念を解放することが自己表現と連続するという設定にしているところも非常に上手いと思った。
— エヌア (@nrknbnyyyy) 2022年6月8日
https://twitter.com/nrknbnyyyy/status/1534590812025065472
生まれ落ちる前からのものとはいえ呪いが解けたものは内的、衝動的表現を捨てて生き残り、後天的な呪いによって視力を失う癒えることのない外傷を負った者は表現と心中して消え去った、というのも上手い。
— エヌア (@nrknbnyyyy) 2022年6月8日
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能のアニメなのかは知らんけど、現代の現実として「魂を伴ったムーブメントとしてのロック死んだ」ということを別のものを借りて比喩的に表現したものとして傑作と言っていいんじゃないかな。犬王。
— エヌア (@nrknbnyyyy) 2022年6月8日
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「昔そんなものがあったけど終わりましたよ」という話の映画。
— エヌア (@nrknbnyyyy) 2022年6月8日
「昔そんなものがあったけど終わりましたよ」という物語を表現するためのロックンロールか。
犬王が異形の身体のままで踊る「腕塚」がストリートダンスを連想させて、身体がほぼ人間に戻ってから演じられる「竜中将」がバレエを連想させるのも革新から保守への変化を表しているのだろうと思う。もちろんバレエが一律に保守というわけではないけど、あるべき身体という概念や伝統を背負っている文化くらいのことは言えるだろう。
そうなると最後に出てくる能はどう位置づけられているのだろうか。物語の流れをそのまま受け取ると、怨念や痛みをつるっと剥いだ世界で行われる飾り物のような舞踊ということになるけど。このあたりは能や舞踊に詳しい人の解説を聞いてみたい。
湯浅監督はアニメーションとしての飛躍を優先させるため、たまに社会や人間の内面の複雑さを置いてきぼりにするイメージがあったけど、今回は脚本も丁寧で安心して観れたし、アブちゃんの演技もよかった。音楽も面白かったのでサントラも楽しく聴いている。個人的に泣けたのは谷一さんの最後。何の力もなくても、せめてああいう生き方をしたいものだけど……。
三種の神器の位置付けと面の役割が映画だけだとよくわからないので原作を読もうと思う。
追記:この感想は面白かった! たしかに。