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ホンのつまみぐい

いろんなもののファンをやっている人が、日々のよしなしごとを綴っています。

「浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」の感想その2

 一昨日の連合赤軍のシンポジウムを改めて思い返し、当日はうまく言語化できなかった違和感について書いておく。
 シンポジウムで当事者たちの顔や語りに触れて感じたのは、起きた事件とその影響の大きさに比べ、当事者のひとりひとりがあまりにも平凡だったことだ。「平凡」という言葉が適切でなければ、事件に見合った器ではない感じがした。一つ前の記事に「普通」と書いて所属を並べたけれど、普通さを際立たせているのはそれだけではなかった。

 たとえば、金(敬称略)が若松孝二の「実録あさま山荘事件」について語った時のことだ。

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」で、若松監督は加藤元久君に「勇気がなかった」と言わせている。そう言わせることで、観客は満足できる。これは事件の矮小化ですよ。市民社会に取り込もうとしている。

 これだけ取り出すと文意がわかりづらい。浅間山荘事件を架空の事件に見立て漫画化した『レッド』の6巻では金は架空対談の相手として山本直樹と対談しているので、そこでの彼の発言を引用してみる。

 あの現場に立ち会ったら誰だって総括から逃れることはできなかったと思います。なぜなら、総括は良かれと思ってやっているから。「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉があります。禅の思想がベースにあるのだから、逃れようがないのです。

 滅びの明るさだったのかもしれ泣けど、みんな底抜けに明るかった。新しい社会を創るために、自分たちは先に死んでいく。未来への礎になれる喜びと夢が、僕らにはあったんです。

 初めて読んだ際は善意で人を殺すという理屈が理解できなかったが、シンポジウムでの発言を聞いていると、彼らはたしかに明るい未来を描いていて、それゆえに正しいと思って仲間を殺したのだと言うことがうっすらわかった。自分たちは美しい未来のための犠牲なのだと本気で、しかもかなり素朴な気持ちで思っていたようだ。

 「矮小化させないために理解を求める」というのは起きた事件を正確に分析することで、そこから教訓を導き出そうという意思だろう。「真実を伝えないと同じことが繰り返される」という言葉も出た。それ自体は正しく、当事者の使命でもあるのだろうけど、そういった社会的な意義のほかにもう少しナイーブな感情からの「自分たちを理解してほしい」という感情を受け取った。なんだろう。あまりに平凡で、殺された側からすると身勝手にも聞こえる話だ。

ほかにも、首をかしげた場面があって、雨宮処凜の「浅間山荘事件以後、政治に関わること全般にマイナスイメージがある。それは赤軍の責任では?」

雪野 それもずっと言われているのですが、正直今更それを言われてもという気分もある。
青砥 『全共闘白書』という本があってね、そこに「いつ活動をやめた」とか、いろいろ書いてあるんですよ。でも、やめるのはあんたたちの勝手でしょうと言いたい。(この返事については細かいニュアンスかなりあいまいです)

ここで私の斜め前、ほぼ舞台の正面に座っていた人から「そうだそうだ!よく言った!」という声があがった。

私は雨宮の主張は正しいと思った。彼らのやったことが後続に与えた影響は計り知れないだろう。勝手じゃねえよ。しっかりしろよ。

でも、そういう感情をきちんと受け止めることができないほど、彼らが普通の人なのだろうということも見ていて何となく理解した。歴史に禍根を残すほどの大事件を受け止めるだけの器ではないというか。植垣が「機動隊と遭遇したときはやった!と思った。今まではブルジョアという抽象と戦っていたけど、やっと戦えると思った」と興奮した口ぶりで言っていて、たしかにそれはとても楽しかっただろうと想像した。でも、間違いだよね。仲間だけじゃなくて、警官も犠牲になってるしね…。これは第二次大戦を生き延びた兵士が現地での出来事を虐殺体験も含めて“青春”として語るのと似たようなものなのだろうか。

しかし、その自分たちの行為の歴史的意味を受け止められていないところがとても「普通」だと思った。望んで輝かしい未来への礎になるつもりだったのに、いざとなったら歴史的意義を受け止められない。善意の人で普通の人が、仲間を大量に殺してしまう。

山本直樹は「謎があるとすれば人間自体が謎。その謎を解くよりそのまま提出したかった」「(赤軍関連の)本を読んだら自分たちとそんなに変わらないと思った」と言っていたけど、たしかに彼らが普通じゃなかったというより、人間全体が普通ではないという方が私にはしっくりくる。彼らは一線を越えるような状況を生み出したという意味では「普通じゃない」。しかし、それ以外は見事なほどこちらと変わらないように感じた。

パネリスト側での発言でもっとも共感したのはウダタカキの「高校時代はつまらなかった。60〜70年代はお祭り騒ぎに見えた。演じることになって、彼らの気持ちがよくわからないと思った。『共産主義的観点から別れた方がいい』という台詞がある。心がわからない。それで吉野さんに手紙を書いた。だけど、終わってからもよくわからなかった。自分も芝居で世界をよくしたいと思っているけど、俺の世界を変えたい気持ちは本当に善意なのかと考えるようになった」(これもニュアンス正確ではないですが、だいたいこんな感じだったように思います)

そう、あの時代ってなんかかっこよく見えるのだ。でも、そのかっこよさの底の浅さみたいなものを目に出来たシンポジウムでもあったと思う。

革命左派の前澤は労組に参加していたそうだけど、「今の若い人は怒らないと言われているが、それについてどう思う」と問われ「ストライキの歴史を調べると賃金があがっている時期はどんどんストをやっている。でも、上昇しなくなるととたんに少なくなる。そういう状況でひとりだけ目立つわけにはいかなくなるからだと思う」「「われわれはどんどん豊かになっていく時代だからこそああいうやり方ができた。今ならできないだろう」という主旨のことを言っていて、もの悲しい気持ちになった。

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