ミニマル・ミュージックの生演奏でダンスが観れるということしか知らずに、「なんかすごそう」という好奇心で入った浜辺のアインシュタインが本当に素晴らしかった。ちなみに私のミニマル・ミュージックに関する知識は「maison book girl(アイドル)がやってるのってミニマル・ミュージックだよね?」というレベル。
前日遅かったので最初少し寝てしまい、意図が掴めていないところがあるが、内容は終末期の人類の物語か。秩序を束ねる人々と、秩序側にスポイルされる人々が登場するが、どちらもシステムに飲み込まれてしまう。そして、システムに飲み込まれた人々は最終的に海に洗い流される。人類はほとんど消えてしまったが、ほんの一雫程度、回復していく何かがあるという物語を読み取った。
反復の続くミニマル・ミュージックでは、ダンサーの肉体も反復を強いられる。ダンサーの肉体が音像を描くための枠に閉じ込められているようにも見えた。独特の音に身体を添わせながら踊る人々が、時に音楽の要求する拘束からの解放を求めてうごめいている様に感じられ、抑制と解放の綱引きが生み出すパワーに心が踊った。
ビニールの海をかきわけるように歩いていくダンサーの姿や、「踊り出せ!」という声が響く中で繰り広げられる激しい群舞、美しい朗読の声など、忘れ難い場面がたくさんある。
無機質さを要求されるものであるかのように思っていたミニマル・ミュージックが、生演奏では強力な緊張感と熱のぶつかり合いとして身体に染み込んでいったのも印象的だった。
しかし、劇場を出たらバレエ好きと思われる初老の女性たちが「ひとつも楽しいところがなかった!何あれ」と話していて笑ってしまった。たしかに、楽しいところはなかったかも。
後日、湯山玲子が本公演を痛烈に批判しているのを読んだ。
そして、こういう記号の“読み”を要求される本作『浜辺のアインシュタイン』のような知的な作品は、現代美術と同様、観客の力量も必要になってくるのだと、つくづく思いました。
力量なくてすまんな……。でも、これに感動した自分を特に否定はしない。今の自分の見る力・受け取る力をしっかり使って感じたことが本質からズレているのなら、そのズレも己の限界として受け止めればいいし、それはそれとして心を揺さぶられたことを特に恥ずかしく思う必要はない。「好き勝手に見ていい」という開き直りは、ストリップを観ることで得たものだろう。未熟であることの言い訳として使うのは違うと思うが、だからといって今の自分の読みそのものを捨てなくてもいいと考えている。