ホンのつまみぐい

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社会派と呼ぶには、あまりに社会の見方が雑「あんのこと」

 

 「あんのこと」の主演の河合優実が日本アカデミー賞主演女優賞を受賞したと聞いた。

 該当の映画は公開時に観た。たしかに力の入った演技だったし、制作の熱意が伝わる映画ではあった。

 しかし、社会課題を扱った映画としては、出来がいいとはとても言えない。

 映画は、社会の枠組みから外れた状態で生きてきた若い女性・杏の話だ。逮捕をきっかけに支援につながった彼女だが、コロナ禍を境に不運の波に飲み込まれ、最後は自死を選んでしまう。

 母に売春を強要され、薬物に溺れる荒んだ生活から一転。シェルターで一人暮らしを始め、高齢者向き福祉施設で働きはじめることで穏やかな生活を始める杏。しかし、コロナをきっかけに働く場所を失い、転げ落ちるように不幸になっていく。

 閉塞感のある東京の町の風景や自然主義的な演出など、コロナ前後の東京を描いた物語として、観るべきところはある。

 しかし、支援の失敗を描いた物語としては非常にアンバランスだった。

 杏を最初に救出し、世話を焼くのは佐藤二朗演じる多々羅という中年の刑事で、彼女を支援につなげるのも彼だ。

 ところが、彼が他の支援者の女性に性暴力をふるっていたことがわかり、途中で杏の支援から外れてしまう。

 また、まともな教育を受けておらず、就労経験もない杏を引き受け、安心できる職場を与えてくれるのは福祉施設の施設長の男性である。しかし、コロナ禍による雇用者の人数制限のために、非正規職員を減らすことになり、杏は仕事を失う。

 男性は杏を助けるが、最終的に手助けに失敗する存在として登場する。

 一方、女は災厄として描かれる。杏の実母はもちろん、杏の自死の引き金となる事件を引き起こすのも女性だ。同じシェルターに住むシングルマザーが、杏に一時的な赤ん坊の世話を押し付けてくるのである。

 杏を引き上げるのは男性だが、失敗するのも男性で、後悔の涙を流すのも男性だ。しかし、彼女を不幸にする決定的な出来事をもたらすのは女性、そして母親なのだ。

 ただし、この映画には迷惑な母は出てきても、その伴侶であり、子供に対しての責任をわけあうはずの父は出てこない。この構図が、非常に不自然だった。

 また、福祉施設やシェルターが出てくるのに、そうした現場にいるはずの女性が存在感を持って出てこない。杏が赤ん坊を押し付けられた時、誰もがシェルターの管理者に相談すればよいのにと思っただろう。しかし、杏は誰にも相談しない。この展開があまりにも無理がある。シェルターの入居時、何となく施設側の女性を融通の聞かない女性として描いてはいたが、それが相談を躊躇わせるほどのものとは思えない。

 杏が働いている福祉施設でも、個性を持って描かれるのは前述の施設長の男性だけである。実際は彼女が働くにあたり、さまざまな女性がサポートしているはずなのに。

 支援の話なのに、女性が後景化しており、役割のある女性は極端な人物として描かれる。監督が描きたいのはいったいどういう社会なのか。

 本作は実際に起きた事件を基に作られている。おそらく、監督が該当の事件についての記事にショックを受け、「なぜ彼女を助けられなかったのか」と思ったことが制作の動機になっているのだろう。

 しかし「なぜ」を問うのであれば、彼女を取り巻く環境、ひいては社会を見つめ直す必要がある。映画で描かれている社会は、その自然主義的な演技や絵作りに反して「なんとなく」な箇所が多いのだ。社会を見つめ直す努力を怠り、不自然な筋書きに悲劇を押し込めてしまっているように見えた。

 杏の自死を聞いた多々羅は、後悔の念に駆られ、激しく慟哭する。しかし、現実にあるものを見ようとしないで、後悔するばかりでは解決に近づくことはできないだろう。

 悲劇の末に亡くなった人を悼みたいという気持ちは映画に出ている。しかし、その悼む役目は男性のみが引き受けている。さらに、描かれている社会の姿が不明瞭で、解決への糸口を考えさせる要素がない。

 そういう意味で、たしかに演技は素晴らしいのだけど、社会にとってあまり意味のない映画だと思った。

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