ECDが特集されるというので「こころの時代~『個』として生きる」というドキュメンタリーを観た。
普段は宗教家や哲学者に話をうかがう番組らしい。過去の放送内容を見る限り、亡くなって1年経ってないラッパーを特集するというのは異例のことに思える。
番組は、自身もDJでBBOYという若いディレクターがECDの周辺を追う形で進行していた。
気になったことがあった。この番組ではECDの社会運動……デモへの参加や曲での意見表明を取り上げていない。たとえば、冒頭のロンリーガールの映像は、youtubeでは「ロンリーガール聞きたいか。選挙行かなきゃやらないぞ」という言葉が残されているが、その部分はカットされている。
これが政権に対するNHKの忖度なのか、それとも番組のテーマを考えた上で、あえて取捨したのかはわからない。
ネット上にもさまざまな声があり、番組の傾向を考慮した上で「これでいい」とする人もいれば、「これでは本質を捉えられない」と悲しむ人もいた。
番組に対する意見は、それぞれのECDとの関わりによって変わってくるはずだ。私は彼の活動を網羅的に把握できているわけではなく、その思いの蓄積は、初期からその姿を見ていた人や、かつてデモで彼の背中を追いかけていた人たちに比べるとはるかに軽い。それを自覚した上で、やっぱりこの番組は社会運動に参加する姿を入れるべきだったと言い切りたい。
番組は著作から引用した言葉をリードに、少年時代から死までの出来事を時系列で紹介し、関係者の証言を散りばめていく構成だった。生真面目な作り方で、早朝の宗教番組を観るような人にECDを嘘なく伝えたいという気負いを感じた。
でも、ECDと家族の関係は、著書からの引用と妻の植本一子へのインタビューだけで説明できるようなものではなく、そのズレや不穏さのようなものは映像の中にも残っている。ディレクターと植本一子の「個」に対する意見のズレは「ECDと個」という見立てをむしろわかりにくくさせていて、それが生々しい力強さを与えている。
社会運動への参加は、番組の流れの中ではわかりやすく説明するのが難しいトピックだろうとは思う。個であろうとする人が、いかに社会と関わったか。簡単に取り扱えない部分だから、あえて外してあるという言い方は出来るだろう。
でも、番組内で説明しきれないものが、ただゴロッと映る時間があってもよかったんじゃないか。人が人に惹かれる理由は、あるいは文化を求めてしまう理由は、その「わからなさ」にこそあるんじゃないだろうか。そして、ドキュメンタリーの強みって、そういう説明しきれなさを記録として残せるところにあるんじゃないだろうか。
「こころの時代」という枠では続編は難しいのかもしれないけど、いつかこのドキュメンタリーの続きが欲しい。いや、誰かに期待するのではなく、続きは自分たちで作らなくてはいけないのかもしれない。
その場所が、映画館か、SNSか、雑誌か、動画サイトかはわからないが。
番組を観ながら、ECDの、強い言葉を発していても、個人的なことを語っていても、どこか物語を朗読しているような歌い方がとても好きだと改めて思った。