曲もリリックもとても魅力的なんだけど、MVも含めたトータルの仕上がりが何となくひっかかる。
田島ハルコやValkneeが提唱する「精神の上でギャルを目指す」という姿勢はもともとあまりピンときていなかった。自分にとって「ギャル」が身近でなく、憧れを共有できていなかったからだ。しかし、「ギャル」を心の芯に据えて、より魅力的な人間になろうとしている彼女たちの姿勢には憧れていた。第三者に定義づけられていない、自分たちのカルチャーを精神の芯にしようとする姿がかっこいいと思ったからだ。
しかし、これだけ意匠をコスプレ然としたものに作りこんでしまうと、彼女たちが「ギャル」に託した精神の部分が見えづらくなるように思った。「プリキュアを目指す」と言っていた大人が、本当にプリキュアの衣装を着て目の前に現れたような。
宮台真司が出てくるのも危うい。彼が定義づけた「援助交際をする制服少女たち」とZoomgalsが描く「ギャル」を同じ線でつなげてよいものだろうか? Zoomgalsが描こうとした「ギャル」はもっとオリジナルなものではなかったのだろうか?
宮台がマチズモの蔓延する社会の中での異端児であり、彼の制服少女たちへの憧れが心からのものであったことはなんとなくわかるが、彼の仕事が少女たちの人生を消費し、搾取したことに変わりないと思う。私は『終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル』をはるか昔に読み、たまにインタビューなどを目にしていたくらいで、宮台の仕事にあまり詳しくないが、彼はかつて少女たちを消費したことに、しっかりと向き合っているのだろうか。
作品としても、「ギャルとは何か」が不明瞭な中、「かつて制服少女を定義した男性」を取り込んだことで、「GALS」というタイトルや、それぞれのリリックの魅力とは裏腹に、彼女たちが目指すものがよくわからなくなっている。
「制服少女を私たちが上書きする」という決意表明と解釈することもできるが、そう取るには散漫な仕上がりではないだろうか。Zoomgalsが宮台をどう思っているかはこのMVからはよくわからないからだ。宮台を取り入れることにより描ける新しい「ギャル」像があると考えているのか、単に昔ギャルの話をしていた学者をネタとして招き入れただけなのか。かつての権威をどう扱うかについて、考えが足りていないように感じる。
曲だけ聴いているうちはこんなにもやもやしなかったような気もするが……。
追記:ただ、女性ばかりが「消費されること」に対しての予防線を細かく張り巡らさないといけない現状に対しても、批判的にならなくてはいけないとも思った。
「宮台は女性を搾取してきた男なので、女性であるあなたたちがそれに敏感にならないのはおかしい」という言い方は、男性側の問題を女性に背負わせることにほかならないからだ。
MOMENT JOONの「ファイター」という表現を借りるならば、「男性が引き起こした問題に対して、女性ばかりがファイターになることを要求している」ことになる。
このMVを無批判に肯定した男性たちにも、この辺りを鑑みてほしいのだが、果たして俎上に乗ってもらえるだろうか。
さらに追記:ユリイカの『女オタクの現在』を読み始めているが、「女オタクと名付けられた私たちとは本来何者なのかという自己規定のためのエッセイ」が多い。
「女」であり「何者」かである個人が、「何者」かではなく、どのような「女」であるかを説明させられるということは多々ある。ユリイカの誌面はそうした窮屈さの反映のようだ。
私がZoomgalsに「ギャルとは何かがよくわからない。はっきりさせて」と言うことも、そういう説明の要求の一種なのかもしれない。
ただ、Zoomgalsは自ら「ギャル」として名乗りを上げているので、ユリイカにおける「女オタク」と同一ではないという面もあり、このあたり自分がどのような距離で曲を聞けばいいのかも難しい。