ホンのつまみぐい

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「マグロとDS」という「いらないもの」の必然

 香川照之の歌舞伎界進出の道のりを描いたドキュメンタリー「父と子」は、父と子の確執を描いた息苦しい内容だった。理不尽な理由で父である三代目市川猿之助に縁を切られた香川は、周囲に快く思われていないも関わらず、息子とともに46歳での歌舞伎俳優デビューに挑む。

 カメラは歌舞伎独特の型も発声も習得できていない状況で、舞台に立つ香川親子の舞台裏に入り込む。初舞台の楽屋、最初の出番を終えて鏡の前で次の出番のためにあわただしく化粧を直す香川と息子。

 自身の芸を「いまいちだった」と息子に吐露する香川。それを受けて、息子は「マグロとDS!マグロとDS」と返す。香川も「そうだな!マグロとDSだ」と答える。

 「マグロとDS」とは一体何か。ドキュメンタリーの中では解明されない。おそらく舞台が終わった後の二人にとってのご褒美ではないかと思うのだけど、本当のところはわからない。ただ、そのわからなさが、テレビ画面に映らない日常の流れを意識させ、ドキュメンタリーに奇妙な幅を持たせていた。

 これはフィクションにおいても同様で「マグロとDS」のような意図のわからないものこそが世界の幅を担保している部分があるのではないか。

 たとえば「じゃりン子チエ」のある場面。子どものような横暴さの男のテツが、居候先のお好み焼き屋でシジミの味噌汁を食べている場面がある。無精もののテツがシジミの身をひとつひとつほじって食べていることに、お好み焼き屋の主人・百合根は「不思議やなあ……、あんな無精な男がひとつひとつシジミをほじって食べるんやから」とつぶやく。このシーンの意味のない面白さに過剰な物語のための意図はない。

 さて、以前感想を書いた「カンナ道の向こうへ」。作者を招いての読書会の経験を経ても、この作品を楽しめなかった理由は、ここにあったのではないか。

 「成長を描いていないこと」「大きなドラマがないこと」については、読書会でくぼさん自身から一応の返答を得た。ニュアンスが違ってしまうと申し訳ないので返答の詳細は書かない。

 しかし、それでも「基本的に面白くない」という気持ちが変わらなかったのだけど、それはおそらくカンナの世界に「マグロとDS」がないからだ。人物も生活も、世界そのものがくぼさんの意図の範疇にあるように見えてしまう。

 いや、そのあたりはくぼさんも意識しているようで、だからこそ、特に主人公に天恵を与えるわけでもなく、ただただ存在する「カンナの精」が登場するのだろう。でも、それが意図の範疇を超えることができているかは別だ。児童文学という分野なればこそ、世界には広くあってほしいものなのに。

 すべてが作り手の意図に基づいて配置されている世界は狭くて息苦しい。むしろ「マグロとDS」の部分のどうでもよさこそが作品の個性になるのではないだろうか。

(追記2014年3月3日)いろいろ考えたんですけど、ようするに私はくぼさんの「説教はしないけど、誘導はする」感じが好きじゃないんだと思いましたー。

じゃりン子チエ (1) (双葉文庫―名作シリーズ)カンナ道のむこうへ (Green Books)