ホンのつまみぐい

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熊本まんが施設めぐりの旅その3 巨人の星トークショー&サイン会-湯前まんが美術館

 トークショーの相手役は熊本の古本屋「キララ文庫」の橋本さん。後で別エントリに書く予定の「熊本まんがミュージアム」プロジェクトの中心メンバーの一人だ。「橋本さん」と親しげに描いたが、このときはキララ文庫のことも「熊本まんがミュージアム」プロジェクトのことも知らなかった

 トークの前に町長ともう一人(教育関係者の方だったかな)のあいさつがあった。

 あいさつは「今もって人気の高い作品『巨人の星』の作者である川崎先生をお迎えするのは、湯前にとってもとても光栄なことで……」というタイプのいくぶん固い内容。つまり文化人扱いだ。なんだか不思議な感じである。

 トークは、橋本さんの「先生とお話するということで、私自身、大変舞い上がっておりまして……」という枕から始まった。

熊本の自然が気持ちを解放してくれた

橋本 原画展は初めてとのことですが。

川崎 初めてなんですよ。他の方の作品と一緒に飾られたことはありますけれど、個人の原画展をやるというのは初です。

橋本 何か理由があったんですか?

川崎 当時は忙しかったですし、そういうことを考える暇もなかったですね。人前で話をするのも苦手だったので。

9年前に熊本に引っ越して、東京と違って非常にのんびりした生活を送るようになりました。生活がおおらかになったと、そういうのもありますね。

橋本 湯前にとってはありがたい話ですね。熊本に住んでもうすぐ10年を迎えようとしていますが、熊本の印象はいかがでしょうか。

川崎 阿蘇に行ったときに、南阿蘇の●●(聞き取れず)から阿蘇山が一望に見渡せるんです。あれだけ雄大な風景を見ると、自分はなんとちっぽけなのだろうと思います。まるで自分が砂浜の粒になったような気がしました。

東京にいた頃は家から出ることがあまりなかったのですが、熊本の自然の美しさ、雄大さにふれ、よく出かけるようになりました。天草方面にも行きました。熊本を舞台にしたいと思って、その後『岩石おばさんとホー 猫の火まつり』という絵本も描きました。

橋本 湯前の印象は?

川崎 阿蘇に行ったときと同じような印象を受けました。こんなに緑が美しいのかと。

今日は少年野球の大会の始球式の参加したのですが、その前に神社を案内してもらいました。土地を巡って感じたものを、本にしたい。そう思えるような風景が広がっています。

橋本 『クッキングパパ』のうえやまとちさんも、締め切りに追われる生活の中で、湯前に来ると癒されると話していました。

睡眠時間は「週」3時間

橋本 『巨人の星』の開始は66年ですが、その当時の先生の仕事量はものすごいものがありました。どの雑誌を開いても作品が掲載されていた。

川崎 当時は週刊誌が3本に月刊誌が2〜3本。それに時々読みきりというむちゃくちゃなスケジュールで、1週間が1日のようでした。1週間のうち、とにかくずっとマンガを描いていますから、水曜日になってやっと一度2時間寝る。そして、1時間かけて起きるんです。そして、金曜にまた2時間寝る。そして仕事が終わるとひたすら寝る。冬でも水を浴びて目を覚まします。

年末は出版社が休みますから、〆切が前倒しになります。一ヶ月カンヅメになって、同じ部屋の同じ机でとっかえひっかえ作品を描いている。やっと解放されて世間の風を浴びて、正月は風邪を引いて寝ている。

当時は年末合併号なんてありませんでしたから、しわ寄せが作家にいくんですよ。1週間に1本だった〆切が2本になる。地獄のような忙しさでしたね。

橋本 子供心に大丈夫かと思いましたよ。

川崎 でもね、ぼくは原稿を落としたことがないんです。〆切に間に合わないと逃げる人もいるんですよ。そこで「先生が病気のため」と描かれて「代原」が載る。

橋本 仕事をお断りするという考えはなかったんですか?

川崎 話を聞くとつい引き受けてしまうんです。いくら忙しくても「こんなのをやってみませんか」と言われると、「いや、それならこんな展開はどうだろう」と話が進んでしまう。また、編集者もうまくノセるんですよね。

日本のあちこちにトキワ荘があった

橋本 一昨年、水木しげるさんの『ゲゲゲの女房』(2010年)が連続テレビ小説になり、話題を呼びました。作中で貸本時代の水木さんが、稿料の乏しさに大変苦労をするくだりがありますが、先生にもああいった困窮の時代はありましたか?

川崎 ぼくはラッキーというか……。15歳の時にプロになろうと思って、17歳で持ち込みでデビューしました。そこで、あちこちの版元からオファーを受けた。大阪の貸本から、東京の出版社が人材を引き抜いていた頃です。

その頃に集英社の編集に引き抜かれて、雑誌で描いているうちに、あちこちの版元から声をかけられました。

大阪ではビック錠、園田光慶としょっちゅう会っていました。単行本はあまりお金にならなかったから、飲み食いできない。あるだけのお金でパンを買って食べたり、八百屋で米を借りたりしていました。ガクランを質屋に入れて、新しい紙や画材を買って、映画のポスターを描いたり、クレパスでジャケットをデザインしたり。そういうことが、後の作品に生きたんですよ。

橋本 ちょうど、トキワ荘と同じ時期ですね。

川崎 あのころは各地にトキワ荘みたいな場所があったんです。いろいろなところに仲間が集まって刺激しあっていました。関東の南波健二さんがわざわざ関西に来てくれたり。

貸本を出版していた日の丸文庫が倒産して、国分寺のアパートに移りました。さいとうたかをさんや辰巳よしひろさん、まつもとまさよし(と、メモにあるのですが、松本正彦か?)さんがアパートを借りていたんです。

橋本 先生は雑誌の中でもとても絵の力が高い印象がありました。

川崎 でも、ぼくデッサンはやったことがないんですけどね。

橋本 『巨人の星』はすぐに引き受けたんですか?

川崎 その前に、集英社の『少年ブック』で書いていました。『少年ジャンプ』の前身になった雑誌です。そこにいた編集者が、とにかくぼくを買ってくれていた。

彼が「売れなくなったマンガ家の末路なんて哀れなんだから、自力をつけて、一匹狼でやっていけるようになるまでは、よそに出るな」という。だから、交流パーティーなんかにも呼ばれませんでした。ああいうところに出ると「どこの稿料が高い」とか話になるでしょう。そういう知恵がつかないようにしたのでは。

昔の雑誌はファンレターの送り先として漫画家の住所を載せていたのですが、ぼくだけ『少年ブック』編集部気付になっていました。

東京に出てきて3年くらいはただひたすら誰にも会わずに『少年ブック』の読み切りを描いていました。3年たってその編集者が、「そろそろ外で勝負しろ」といって、『サンデー』で読み切りを描いた。それから『サンデー』で連載が始まって『アタック拳』(65年)、『キャプテン五郎』(65〜66年)、『アニマル1』(67〜68年)が始まりました。(トークでは出ませんでしたが、ほかにサンデーではほかに『死神博士』(66年)、『タイガー66』(66年)という連載があったそうです。参考:漫棚通信「川崎のぼるがどれほど忙しかったか」

それを見て、マガジンの内田さんが声をかけてくれたんです。ぼくの絵は劇画調が入っていて、当時としては目新しかったのですね。

当時は『ちかいの魔球』(原作・福本和也、作画・ちばてつや)が野球マンガの最高傑作と言われていて、これ以上のものは出ないと言われていた。だからといって、雑誌に人気スポーツの野球漫画を載せないわけにはいかない。

そこで、まったく新しい、野球を通して少年の成長を描くような漫画、宮本武蔵のような漫画はどうだろうということになりました。

梶原さんはもともと小説家志望で、当時は、こづかいかせぎのつもりで『プロレス悪役物語』(62年)なんかを描いていた。

しかし、内田勝さんが「少年マガジン尾崎紅葉(これは川崎先生の勘違い。正しくは佐藤紅録)になってくれ」と頼んで、それに感銘を受けた梶原さんが引き受けられたそうです。

雑誌としては新人の絵がほしかった。それで、新しい絵を描くということでぼくが指名されました。ぼくも原作付きは初めてでした。

内田さんは「マッチ箱のようにこすったらポッと燃える、お互いが擦りあってついた火で、燃え上がるような作品にしよう」と。『巨人の星』の時は、ぼくも24〜25歳で、梶原さんも編集者もみんな20代でしたから。

原作は毎週届く挑戦状

橋本 梶原さんの原作は絵に描きやすいタイプなんでしょうか?

川崎 ぼくは読んですぐイメージが湧いたし、ものすごくひらめきが生まれました。小池一夫さんはシナリオ風で、梶原さんは小説風なんです。小池さんは10人が10人とも同じよう作品になると思うけれど、梶原さんは10人ともが違う作品になると思う。

橋本 川崎さんの絵が梶原さんにも相当刺激を与えたと思います。

川崎 「おれの原作がこうなったか、よし!」と思ってもっと面白いものと奮起してくれた。ぼくも「原作には絶対に負けたくない」と思って、コマ割も凝ったことをいろいろやりました。甲子園最後の試合での夕焼けとか、原稿に描いていないのに勝手に描くんですよ。「がーん」という表現もそう。原作に出てきた言葉を擬音にした。(「がーん」という表現については、『巨人の星』以前に貸本劇画で使われていたというみなもと太郎先生の指摘が『まんが学特講 目からウロコの戦後まんが史』にあります)

編集部もうまかったんですよ。いいとすぐに電話がかかってきて、「ここがよかった!」と伝えてくれる。

みんな20代でね。プロの仕事という感じがしなくて、すごく楽しく描いていました。

橋本 当時は連載のページをめくるのももったいなかった。幸せな時代でしたね。

川崎 今は漫画家も文化人、有名人だけど当時は漫画がPTAの悪書追放運動の対象になっていました。だからこそ、絶対に面白いものをという気概があった。それが結果に結びついたのだと思います。

「少年ものは、絶対に面白くなくちゃいけない」。そういう気概で作っていったからこそ、青年も読みだしたのだと思います。部数もどんどん増えていった時期ですね。

橋本 あの頃はストーリーマンガが進化していった時期です。梶原さんはストーリーマンガのエポックとして、もっと評価されていいと思います。

川崎 それまでの少年マンガは、勧善懲悪が多かった。でも、飛雄馬はけっこう勝負にも負けるし、人をねたんだり恨んだりします。お金の話も出てくる。それが当時は新しかったんですよ。

橋本 負けるシーンがインパクトがあるんですよね。読みながら、飛雄馬と一緒に泣いていました。

川崎 涙もぼくが描いたんですよ。梶原さんはあまりよけいなことを描かない。ぼくも梶原さんと直接話し合うことはありませんでした。ネームを読んだときのひらめきを大事にして書く。

挑戦状みたいなもんですよ。「これでどうだ!これでどうだ」とやりあう真剣勝負だった。最終回の十字架を背負ってゆく場面も、ぼくが入れました。原作にはないんです。

橋本 最後の挑戦状ですね。

川崎 そう。ああいう、さびしい感じのする終わり方ですけど……。うん、でも余韻は残せたんじゃないかなあと思います。

質疑応答

 最初はほほえましいような少年たちの話から始まり、最後に胸がしめつけられるようなラストに至ります。あのラストは最初から決まっていて、先生と梶原さんが話しあわれていたという話をどこかで読んだのですが、本当でしょうか?

川崎 いや、ぼくは関わっていないですね。編集部と梶原さんが話し合ったのでは。

 ラストを受け取った時に、寂しくなかったですか?

川崎 たしかに寂しいといえば寂しいけれど……。左門は結婚して幸せになって、飛雄馬はそれを外から見ていて……。でも、父と戦って、勝ったわけですよね。

それに、終わったときはほっとしたという気持ちが強かったですね。忙しかったし。おそらく梶原さんもそういう気持ちだったのでは。

 星一徹のイメージは「ひごもっこす」なんじゃないかと思うのですが、梶原一騎からそういう話はありましたか?

川崎 いや、特にそういうイメージの指定はなかったですね。キャラクターは自由に描いていました。

 私は川崎先生の漫画が大好きで、『いなかっぺ大将』が特に好きでした。『いなかっぺ大将』にまつわる話があれば聞かせていただけますか?

川崎 実は、ぼく自身が一番好きな作品は『いなかっぺ大将』なんですよ。もともと「熱血マンガを」と言われて描きはじめて、最初は『姿三四郎』的な田舎から東京に出てきた男子を描きたいと思っていた。

田舎からきたのだから動物としゃべれる方がいいだろう。かわいい女の子ときれいな先生がいた方がいいだろうと考えていくうちに、だんだんギャグマンガになっていきました。お腹が出てきて、目も丸くなっていった。ニャンコ先生は、柔道を猫に習わせればいいだろうとやっていったら、レギュラーになっちゃって。連載当時は『巨人の星』と同じ作家と思われていませんでした(笑)。



 最初の質問、実は私だ。なぜこれを聞いたかには理由があって、それは『巨人の星』のラストの構想はいつから決まっていたかが前々からの疑問だったからだ。

 梶原一騎が最初から着地点をあそこに定めていたとすれば、すごいことだと思うけれど、連載当初、そこまでの表現の幅を少年誌に期待していたとも思えない。制作過程の中でテーマを広げていったのだと想定していた。だから、これは一度確認してみたいことのひとつだった。

 もうひとつ、「寂しくなかったですか?」も私で、これはつい口から出た。

 私は基本的に「破滅の美学」とかいうのに懐疑的で、それはたいがいにおいて「一番いい時に死ぬ」「他人を顧みずに消える」というのは、ある種のナルシシズムに基づくものだからだ。主観的には美しいかもしれないけど、貧しい。しょっちゅう主人公を破滅に追いこんでしまう梶原一騎がアリなのは、彼が貧しさを自覚した上で生き様を選択しているからのがわかるからである。

 だからこそ、自分の身を破滅においこんでしまう飛雄馬の生き方を、作り手に盲目的に肯定してほしくないという気持ちがあったのだと思う。

 でも、これはつまり「あの終わり方、しょーじき納得できないんですけど」と聞くようなもので、考えようによっては攻撃的な質問である。

 その上での先生の答えには「どうあれ、彼のような成し遂げた人間に対して同情はしていない」というニュアンスを感じた。

 先生にとっては、梶原一騎内田勝宮原照夫と同じように、星飛雄馬というキャラクターそのものが戦友のようなものなのかもしれない。

 トーク終了後は先生が即興で絵を描くことになり、広げた新聞紙2枚分くらいの紙に飛雄馬の顔が描かれていった。まつげから描きこまれる顔にキャーキャーいう女性陣(自分含む)。パラパラアニメに出来るくらいの量の写真を撮った。しかし、出来上がりが濃いなあ……。





 トークショーの後はサイン会。横浜土産の霧笛楼の横浜煉瓦とお手紙をお渡しし、先生とツーショット写真を撮ってとりあえずの目標はすべて達成。
 
 サイン会前後の時間に、熊本の方々にいろいろお話をうかがった。キララ文庫の橋本さんや、新聞記者、地元の文学館、研究者の方々。某紙の記者さんは「『愛と誠』の元ネタは『無法松の一生』」「松本零士は新聞記者になる予定があった」等々いろいろな話を聞かせてくれた。しかし、「『愛と誠』のテーマがよくわかんないんですが」に「あれは愛の献身で誠が真人間になる話ですよ」というきわめてまっとうな返事をいただいたのはちょっと驚いた。誠はあれが真人間なのか。そもそも愛の方が怪物みたいな女の子だし。

 夜は現場で出会った女性達と「飛雄馬カワイイ」トークで、いろいろな人と話をして長い1日が終わった。

*トークに登場する作品の一部

巨人の星(1) (講談社漫画文庫)岩石おばさんとホー―猫の火まつりいなかっぺ大将 第1巻 (ぴっかぴかコミックス)ちかいの魔球 (1) (講談社漫画文庫)ゲゲゲの女房


*代表的な研究・関連書
マンガの深読み、大人読み貸本マンガRETURNSまんが学特講  目からウロコの戦後まんが史劇画バカたち!!劇画漂流 上巻劇画漂流 下巻