ホンのつまみぐい

誤字脱字・事実誤認など遠慮なくご指摘ください。

いなくなった子どもたちと残った音楽

 お盆期間のすっかり人のいなくなった通勤電車の中で、うとうとしながら聴くBELLRING少女ハートの「UNDO THE UNION」がとてもよい。歌詞が脳に染み込む感覚がある。

男の子、女の子

機関車の慌ただしさ

Ah あの冬は君の背に

目眩で恋した

あのタンジェリン かじりついて 爆ぜるアシッドな香り
そうタンジェリン かじりついて 味わってみるの
おとなってさぁ あきらめるじゃん 寝転んだ目して笑う
赤ちゃんってさぁ 手を伸ばすじゃん すべてに触れたい

  黒いセーラー服に黒い羽のベルハーは、そのビジュアルや歌詞の世界観から退廃的と言われていたけど、その魅力を支えていたのはメンバーが放つ稚気だったと思う。どこか幼く調子っぱずれな歌声と、すさまじい運動量なのに洗練されないダンス。だけど、少なくとも「UNDO THE UNION」リリース時のベルハーからは、幼稚ゆえの退屈さはなく、「タンジェリン細胞」の言葉を借りるなら、臆すことなく伸ばした手のまっすぐさに美しさを感じていた。

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 ベルハーは、櫛から歯が欠けるようにメンバーが辞めていき、最後はボロボロになって終わっていった。無我夢中で踊っていた女の子が成長し、「我に帰っていった」時期に、ベルハーが終わったのかもしれない。

 そういう気の利いた風な、だけど何もわかっていない言葉を投げつけられることを、誰も喜ばないだろうけど。

 ベルハーの絶頂期は、メンバーの心身に相当な負担がかかっていたと聞くので、再現してほしいとはとても思えないのだけど、それでもあの頃の美しさはやはり真実としか言いようがなく、私は小野啓が2年半をかけて撮影したという写真集「暗闇から手をのばせ」をたまに眺めている。

暗闇から手をのばせ

暗闇から手をのばせ

 

silverbooks.net

UNDO THE UNION

UNDO THE UNION

 

「セッちゃん」(大島智子)読んで泣いてるおっさんキモい

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

 
セッちゃん (裏サンデー女子部)

セッちゃん (裏サンデー女子部)

 

 

 誰とでも寝るからセックスのセで「セッちゃん」というあだ名の女の子。そして、セッちゃんとセックスする、何事にも無関心な男の子あっくん。停滞感の漂う震災後の日本を背景に、ふたりの若者の日常が描かれる。

 

 大島智子の描く震災後の日本では、SEALDをモデルとしたであろうSHIFTという学生による団体がテロを起こす。セッちゃんとあっくんの周囲にもデモに参加して社会を変えようとじたばたする友人がいるが、二人は友人を小馬鹿にしながら生活している。

 

 彼らはデモに象徴されるような社会的現実に動員されることを拒むことによって、日常を維持しようとするが、それは最終的には敵わず、セッちゃんは外国でテロに会って死んでしまうという悲恋のお話。T.V.O.D. のコメカさんの紹介を読んで興味を持った。 

「『ごめーん』とか『ありがとー』とか必要」な世界を拒絶したり、「友達と笑って、テストは20番以内キープして、彼女つくって」生きていく世界に諦観を持ったりできる存在とはつまり、「子ども」である。セッちゃんとあっくんは、「少女漫画にかぶれてる」「悪意の無い計算高さが浅はか」な、あっくんの彼女のまみさんをバカにするけれど、二人ともどこかで、そういう「浅はか」なまみさんの方が大人になれる可能性とその意志を持っていることに、本当は気付いている。

「真相」も「正解」も存在しない。ただ、セッちゃんが少しだけ引き受けようとした主体性が、一体どこに向かう可能性があったのかを考えたい。うたちゃんもあっくんも大島智子も、「こんな世界はセッちゃんには似合わない」と思っているのかもしれないけど、本当にそうなんだろうかとぼくは思う。少しだけ「主体」を引き受けようとしたセッちゃんの方が実は、いつまでも「子ども」みたいな私たちより少しだけ早く、この世界で、「日常」で、大人になるきっかけを掴んでいたんじゃないのだろうか?

 

そういうことを考えるのを繰り返していたら、いつの間にか私たちはたぶん「子ども」ではなくなってしまうだろう。「セッちゃん」を読んでどうしようもなく感じる切なさも、忘れていってしまうだろう。

 

でも、それでいいのだと思う。

 T.V.O.D. — #TVOD Essay27 「セッちゃん」のこと/comeca

 

   私はセッちゃんに切なさを感じない年齢になってしまった。だから、熱意を持ってこの作品について書くことができないのだが、この作品に寄せられたおじさんたちの言葉がキモかったのでそれについて書く。セッちゃんについてはマンバ通信で土居伸彰さんが論考を寄せている。

 

では、『セッちゃん』という寓話は何を描くのか。それは、「あっち側」と「こっち側」に分かれている世界と、前者の消滅である。「あっち側」と「こっち側」。それは『リバーズ・エッジ』にも共通して存在するテーマだった。主人公のハルナは「こっち側」の人間で、しかし、河原の死体の存在を共有の秘密とする美少年の同性愛者山田くんや人気モデルの吉川さんたちとの交流を通じて、退屈な「こっち側」の日常のなかで、「あっち側」を垣間見る。しかし、最終的にハルナは、「あっち側」には行かない(行けない)。「あっち側」は河の向こう側の世界のように、手の届かぬ場所として存在し続ける。退屈な日常そのものは脅かされることはない。

セッちゃんは、震災によって存在が許されなくなってしまった「あっち側」の世界──露悪的だったり、虚無的だったり、退屈だったり、無価値だったりすることによって、「こっち側」の現実に反逆したり逃避したりするための領域──である。『セッちゃん』が語るのは、そういう世界が消えてしまったということなのだ。あらゆる人が、すべてが「現実」に向き合わなければならず、「あっち側」にいることが許されず、技術によって賢く(もしくは皆が共有する物語に「バカ」として相乗りすることで)「こっち側」にいつづけることを要求するそんな時代がやってきてしまったことを、『セッちゃん』は描いているのだ。そんな時代においては、「セッちゃん」は死ぬしかない。岡崎京子が描き出したような「退屈な日常」、「平坦な戦場」といったものは、真の意味において「あっち側」に行って、消えてしまったのだ。

 

magazine.manba.co.jp

 

 土居さんの見立ては概ね理解できる。しかし、「セッちゃんは死ぬしかない」と、それはおじさんが言うことなのか。セッちゃんが安心して生きられない社会の責任は、私も含めた中年にもあるんじゃないか。そこで感傷に浸ったり、この作品は真実を言い当てていると興奮しながら言い募るのは、ちょっと無責任なんじゃないか?

 

 そして、そこに「無垢な存在こそがほんとうのことを知っていて、それゆえ私たちはそれを失うけど、その美しさを知ってる分だけほんとうに近い」という種の感傷はないのだろうか。セッちゃんの切なさに涙する人は、彼女に死んでほしかったんじゃないか? 死んでしまえば、彼女は「永遠の運命の女」になるのだから。そんな邪推をしたくなるほどセッちゃんの死はロマンチックに描かれているし、セッちゃんを語るおじさんの言葉は感傷的だ。

 

 しかし、おじさんは本当はセッちゃんを消費したいのではなく、セッちゃんになりたいのかもしれないと思うと、少し納得がいく。あるいは、セッちゃんの存在できる時間軸にエスケープしたいのかもしれない。おじさんはおじさんで「男で中年」として、常に社会的現実に動員されているのだから、そのプレッシャーから逃げたいのかもしれない。

 

(追記:風俗について調べていると、娼婦を過剰に聖母化し、崇め奉りながら、個々の主体性や人間性を無視する人間を見かけることが少なくないが、それと近いズルさも感じる。この誤認はあまり性別を問わず、女性が書いた物語などにも現れる。水商売の女性を「すべてを受け止めるスーパーウーマン」として思い描いてしまう女性はそこそこいる。

 先ほども指摘したが、広くは「女性」。狭くは「少女」「娼婦」を「社会的現実の周縁におり、だからこそ社会から逃れることにできている無垢で自由な存在」と誤認し、崇めたてる思考が本作をロマンチックなものとして読ませていると思う。セッちゃんが誰とでも寝る女の子であることと、娼婦という表象の聖母化は無関係ではないと思う。言うまでもなく、実際には周縁にいる人間は、自覚のあるなしに関わらず過酷な社会的現実にさらされている。)

 

 ところで、『セッちゃん』について「岡崎京子を更新した」という感想もツイッターではいくつか見かけた。しかし、それもいまいちピンとこない。少なくとも、女の子の生き方の選択肢として、セッちゃんの頼りなさにはだいぶ後退を感じてしまう。

 

 セッちゃんがヤリマンなのは自分の身体の価値を自分でコントロールしようとしている感じがあり、その主体性は一見岡崎とつながるものではある。しかし、荒々しい描線で描かれる岡崎京子の女の子と比べると、あまりに弱々しくて見ていてちょっとイラッとしてしまう。その弱さには彼女なりの切実さがあると思うのだけど、少なくとも私にとっては「生きたい姿」ではなく、また、「岡崎京子を更新したか」どうかで言えば、していないだろう。(追記:岡崎京子を無効化したとは言えるかもしれない)

 

 大島智子の絵はだいぶ萌え系の文脈を引き継いでいて、普遍的な可愛らしさがあり、癒やしの要素も感じ取れる。セッちゃんで泣くおっさんに反感を持ってしまうのには、本作が慰安として消費されているのが伝わってしまうからでもある。

 

 でも、この慰安こそが若者にとって切実なのだとしたら、それに文句をいうこちらの方が傲慢なのかもしれない。しかし、このマンガを当の若者がどう読んだかについての言葉はあまり見当たらないのである。

 

 読みながら、『私は貴兄のオモチャなの』(岡崎京子)や、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(岡田利規)について思い出した。『私は貴兄のオモチャなの』のホシちゃんは、好きな人にとことん搾取されてしまうが、とてもタフな女の子だった。

 

 ところで、『セッちゃん』については、ほかにこの文章が面白かった。マンガとしての演出手法や、読み手の感情の変化をもっともうまく言語化しているのはこの評だと思う。「ひとりで勝手にマンガ夜話」、懐かしい……。10数年前によく読んでいたサイトだ。元ネタのマンガ夜話が終わって10年たつ今でも、更新を続けてくれているのはうれしい。

 大島智子「セッちゃん」セイダカアワダチソウはもう生えない

 第一話から「セッちゃん」は誰とでもセックスをする女の子であり、自宅には小学生の妹がいながら父親から疎まれ蔑まれている様子が描かれている。女子の学生からは誰でもやらせる女と噂され、男子からはそんな視線を向けられる。家でも外でも孤立しているような感覚であるが、セッちゃん自身に切迫感は感じられず、セッちゃんを大事にするという男の子の告白をカレーを食べながら聞いても物足りないといった様子で空になった皿をスプーンでカシカシと叩く程度のことでしかない。

 この場面は私がとても好きで、男の子のおそらくかなり勇気のいったろう告白を、当然その前にセックスはしちゃっているわけだけれども、そうした真剣さを空腹と同列に並べているというわかりやすい演出であり、セックスで漠然とした孤独感は満たされないけれども、お腹は簡単に満たすことができるのに、なおまだ何か物足りないといったふうにスプーンでお皿を叩く、という表現が、彼女のセックス観というものを端的に表現している。この場面の直後にあっくんが登場し彼女であるまみとのちょっとした対話が描かれるのだけれども、セッちゃんを蔑むまみの言動に、あっくん自身がまみに対する興味のなさというものをそのまま言葉として読者に表明する。充足できないセッちゃんと満ち足りているような恋愛や大学生活を送っていながら、その実、あっくんが感じる欠乏感というものが、この二人を後々関係づけるだろうことが、この時もうすでに物語の期待として演出されている。

 行定監督は、この映画を「夜の映画」だと語る。監督自身が当時リアルタイムに味わった原作の力強さには抵抗せず、映像作家として、夜の照明や月明かり、町並み、セイダカアワダチソウやススキが生い茂る川辺の暗さ、それらが映える撮影により、BGMを極力抑えた物語世界を構築した。


 一方、「セッちゃん」が映像化されたとしても、そうした暗さも闇も描かれないだろう。夜でなければならない場面がないし、夜である必然性もない。なんとなく描かれた現実世界、それを浅薄だと切って捨ててしまうのは容易いけれども、惹かれるものがあったのも事実である。「リバーズ・エッジ」でこずえは主人公のハルナをこう評する。
「大丈夫よ あの人は何でも関係ないんだもん そうでしょ?」


 あっくんやセッちゃんのことだなぁと直感した。二人は、時代を超えてキャラクター性によって私の中でハルナと繋がったのである。

 

私は貴兄(あなた)のオモチャなの (フィールコミックスGOLD)

私は貴兄(あなた)のオモチャなの (フィールコミックスGOLD)

 
私は貴兄のオモチャなの (FEEL COMICS)

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わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)

わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)

 

  この感想を書いた後で見つけた、「デモをする側」であり続けてきた紙屋高雪さんによる評。

 2019年の現在、「あっち側」との距離感は、『リバーズ・エッジ』の頃と比べて相当近くなったと感じられる。すぐそばにあることがわかる。だけど依然として「あっち側」という膜に隔てられたままだというもどかしさが、この作品から伝わってくる。

 デモは身近にある。55ページではシフトのデモに学生たちが共感を述べている言葉が書いてあるし、シフトがテロを起こしてから学生たち自身がその反テロの座り込みを起こす。

 だけど、あっくんとセッちゃんはそこにいない。

 「それじゃない」というわけだ。

 まだそんなことを言っているのか、と左翼のぼくはつい叱り飛ばしたくなるのだが、それも一つの実感に違いない。その実感をデフォルメした作品として、本作はある。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 私も「そんなことを言ってるうちにあっち側どころじゃない場所に動員されるぞ」というのが実感なのだけど、その言葉で人は動かないだろうことは知っている。そして、ぼんやりとノンポリで生きてきた私と違い、活動の場に立ってきた紙屋さんには、私と違う言葉で語ることが出来るし、その資格があるようにも思った。

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

 

 

BABY BABY vol.1@中野heavysickZEROに行ってきました

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 あらいぐまMCさんがリリースライブをやると言うので行ってきました。

 ドクマンジュくんが大丈夫音楽としてビートライブをやると言うのでその時間くらいに到着。

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 会場は中野heavysickZERO。ここ、いいですよね。銀行の金庫のような分厚いライブ会場の扉を開くと、中は打ちっぱなしのコンクリの壁。照明はオレンジベースで、奥が少し詰まっていて、ステージ前が一番広いというのが、何だか洞窟みたいで。

 出演者は秋葉原サイファーのメンツを中心に、主催のmeriさんとあらいぐまMCさんそれぞれの縁がつないだ人々。みんな普段は働きながら音楽作ってるはずなのに、ライブのホスピタリティと明快さが際立っていて感嘆しました。ふざけてるけど、甘えたところがないし、みんな人前に立ち慣れてる。クルーはコンビネーションしっかりしてるし、ライブ30分やっても揺るがないし、フィジカルがすごい!

 スケッチブックを使ったフリップ芸をやったり、スーパーマリオの音を取り入れたりと、それぞれが自分が好きなものを表現に取り入れているのもよかったなあ。やってる方はもともと好きだったものがますます好きになるし、見てる方にはその人がどういう人間なのかがストレートに伝わりますよね。

 あんまり曲作りたいと思わないんですが、ああいうの見てるとちょっとやりたくなりますね。ステッカーでいっぱいのガジェットを見て、そのにぎやかさをうらやましく思うような感じかなあ。

 楽しそうなステージに煽られてフロアも終始めっちゃ盛り上がってました。

 tofubeatsみたいな髪型になってたドクマンジュくんはマイペースなビートライブから。語彙がなくて申し訳ないが、だんだん音が走ってく様子も含めてよかった!

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 あと、MCで稼げるんじゃないかと思うくらいMCうまいすね。ラジオパーソナリティの需要あるのでは。

 後半はfeatでヤボシキイくんが出てきて気さくでゆるい感じに盛り上がり。最後はわざわざリミックスしたBABY PLAYで、「俺も赤ちゃんプレイしてえなあ 大量にウンチ漏らして チンコの裏まで 綺麗にフキフキしてもらいてえ」って客に言わせてました。

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 トリを飾ったあらいぐまMCさん。今までのメンツが「ドラム」だとしたらひとりだけ「太鼓!」みたいな存在感。そもそもビートがけっこうアンビエントだったり、わかりやすくドラムが聴こえる音じゃなかったりするのに、ライブになるとほぼシャウトだし、声の圧はすごいしで、ある意味演劇的。しかし、ポエトリー的な「静かに味わってください」っていう感じはゼロでオリジナリティ半端ないです。リリックはシニカルで自虐入ってるのに、なんか聴いてるとパワー出ます。

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 最後の曲、「Sad monster」は音楽と友情の詩。「サッドモンスター 舞台の上で暴れる/サッドモンスター マイク持てば変われる/サッドモンスター 舞台の上で暴れる/スポットライト浴びれば人の殻を破れる」はエモいし普遍性があって、ライブでも音源でも強度ある。

 間に入った素直なMCもよかったです。お疲れさまでした。

aryguma.hatenablog.com

 個人的にはひさびさにらいんひきさんとヘルガさんとヤボシくんに会えたのもよかった。

 ところで、ドクマンジュくんが合間に転換DJで悪い曲をいっぱい流してたんですが、なぜかノリアキの「Unstoppable」とTohji&gummyboyの「Higher」と「涼宮ハルヒの憂鬱」OP主題歌「冒険でしょでしょ?」が同じくらい盛り上がってて謎でした。

 

music.apple.com

  写真は会場に置かれていた主催二人のおすすめマンガ。

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 こっちは主催二人の音源へのリンク。

linkco.re

mazairecords.bandcamp.com

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“着る”アフリカ展@神奈川県立地球市民かながわプラザ(あーすぷらざ)

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 だいぶ前の展示なのだけど、写真集を読んで記憶があざやかによみがえったので、備忘録として。

 サプールはフランス語で「お洒落で優雅な紳士協会」を表す言葉の頭文字を取ったコンゴの人々の呼称。彼らは世界最貧国と言われるコンゴ共和国で、自らの年収の4割を海外の高級ブランド服に使う。

  普段は質素な服装で生活しているが、土日の礼拝へ向かう際にはヴィヴィッドなコーディネートに身を包んで、街を練り歩く。

 サプールが洗練された服で街を歩き回る姿はそれそのものが祝祭的で、褐色の肌と上品で鮮やかな服の組み合わせは心を浮き立たせる。

 会場には、あるサプールの「いい恰好をしていると争いを生まれないんだよ。5000ユーロの靴を履いていても、戦争で略奪されたら自分の負け。だからサップは争いごとはしない。平和が大切」という言葉が掲示されていた。本の中でも「サプールは平和の象徴」と語られている。

 私は当初その意味がよくわかっていなかった。たしかに戦渦で好きな服を着るのは容易ではないだろうが、それでもそれが「平和の象徴」とはどういうことなのかと。

 しかし、それはただ自分が好きな服を着て自分らしくあることにとどまらない、この祝祭性にあるのだろう。踊るように歩き回るサプールを見て笑顔になる人々を見ていると、彼らの服装と信念の意義を思い知らされる。

THE SAPEUR コンゴで出会った世界一おしゃれなジェントルマン
 
平和をまとった紳士たち 日本語-英語版 SlowPhoto

平和をまとった紳士たち 日本語-英語版 SlowPhoto

 

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 展示ではアフリカの装飾文化についても学ぶことができた。写真は時事や故事成語を織り込むこともあるというカンガ。


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踊り子は過去と今をつなぐ/DX歌舞伎町閉館ラスト公演2019年6月結のチナツ「フラメンコ」

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あと3日で営業終了という日に、初めてDX(デラックス)歌舞伎町を訪れた。少し雨が降っていて、街全体が湿り気に覆われた日だった。


雨に濡れた薄暗いコンクリの中に浮かび上がる、キャバクラやホストクラブの看板。情緒のない明るさに居所のない気持ちになる。早く劇場を見つけたいと思いながら歩くが、なかなか見つからない。湿った街をぐるぐる回っていると、蒸し暑さも手伝って弱々しい気分が広がっていく。 


やっと見つけたDX歌舞伎町。小さな看板を横目に地下への階段を降りて劇場の入り口を開けると、スーツ姿の背中の連なりが見えた。売り上げ不振で営業終了と聞いていたが、さすがに混雑しているらしい。背中のすきまから見えるステージでは、大柄な女性がフラメンコを踊っていて、見慣れた風景にひとまずほっとする。


よく見まわすと、立ち見の人と人の間にそれなりにすきまがあり、壁際にもスペースがあることに気が付いた。入り口が詰まっていただけで、混雑しているとはいえ、さほどの人の量ではないようだ。特別講演と銘打って通常5000円の入場料を8000円にしているとはいえ、最終3日前でこれなら、閉店するのもわかる。


暗く塗られた壁や荒れたイス。そして天井右手に取り付けられた透明の棺桶のような箱。夢の空中ゴンドラと書かれたその箱は、かつては本板を客が下から眺めるために使われたというが……。過去の痕跡がそのまま残された古びた劇場にいると、見世物小屋にタイムスリップしたような気持ちになる。


ステージの踊り子は、すでに盆の上で薄布の赤いドレスに着替え、筋肉の詰まった肉体をさらしている。空気をかき分けるような力強い肉体の動きを、追いかけるようにふわりとなびく赤いドレス。そして、鳴り響く少し寂しげなフラメンコ。踊り子を照らすスポットライトは白熱灯のようなまぶしさで、その過剰な明るさがかえって女体の生々しい陰影を引き立てていた。


真っ白なまぶしい光に照らされ、少しわざとらしいくらいの情感をこめて踊り、局部を見せつけるためにポーズを取る女性。まるで古い映画の中にいるようだ。曲がいつの間にか日本語の歌に変わっていた。噛みしめるような気持ちで歌詞を聴きながら、寺山修司が好きだった高校生の自分を思い出した。そういえば、私は寺山修司から「新宿」という土地を知ったのだ。

 
ストリップを観ていると、たまになんの関係もないはずの自分の過去が溢れて感傷的になることがある。この日はそんな日で、なぜか少し泣けてしまった。

 

時代から取り残されたような古い劇場は、過去の足跡を色濃く残したまま消えていく。過去と現在があって未来がない場所で、少し古臭い、しかし優しく郷愁を誘うような音楽に合わせて彼女は踊る。そのダンスのあでやかさやじっとりとした汗は現在そのもので、しかし、過去と今をつなぐような力強さがあり、なんだかとても暖かいもののように感じられた。

 
ステージが終わるとすぐ、2人の小柄な女の子が私の横を通り過ぎていった。よく見ると武藤つぐみさんと小宮山せりなさんだった。踊り子は他人の演目を観ることを「お勉強」と言う。彼女たちも「お勉強中」だったのだろう。


フラメンコを踊った踊り子、チナツさんと写真を撮った。ストリップは一度引退し、今は時々小さな公演をプロデュースしながら、ダンサーを続けているというチナツさん。「あたし出戻りなんですよ〜」と言いながら笑っていた。


その後の6人。田舎から憧れの東京に出て、最後は娼婦として辛い毎日を送る演目をやった葉月さん。ステージも体も緩慢だけど、愛想のいい写真撮影で人気の美咲さん。所作のひとつひとつが美しく、セクシーな女教師を演じていても清潔感のあるMIKAさん。大きな扇子をかかえ、どこか寂しげな美しさで踊る友坂さん。アラビアンな衣装で、ほがらかにマイペースに踊る武藤さん。キュートな表情と肢体で悪魔を演じる小宮山さんまで観て帰宅。御幸奈々さんと真白希実さんは観られなかったが、それぞれがそれぞれらしかった。


常連のお客さん同士は、寂しさとあきらめを分け合うような表情で、顔を見合わせていた。死を受け入れるというのはこういうことなのだろうか。劇場はどんどん減っていき、過去との接続点も消えていく。消えていくものをただ惜しむだけの状況が、もどかしかった。

 

  余談だが、デラカブという名前は、前野健太の曲の中に残されている。彼が、自分の曲で踊るストリッパー「石原さゆみ」を観に行った際の経験をもとにして作った歌だ。

 前野はそのことを『Didion』01にて、エッセイとしても発表している。

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”私のショーは会場のお客さん一人も淋しくさせないぞ”「えんぶ」2019年8月号黒井ひとみインタビュー

私のこと「ブス」って言って目を逸らす人にもマ○コ見せるんだよ。そりゃ毎日毎回崖から飛ぶ気持ちだよ。

 明日死ぬかもしれないって何かの比喩とかではあるけど文字通り明日死ぬかもしれないって。で、明日死ぬとしたらやりたいことをやろうって思った。それで、それがストリップだったの。

 こんなことを言われてしまっては、もうほかに語ることがないというくらい、ストリッパー・黒井ひとみさんのインタビューはすばらしかった。

 大学では演劇科に所属。卒業後は出版社で働いていたという彼女は、あることをきっかけにストリッパーに転身。その後、一度の休業を経て再びストリップの世界に戻ってきた。物語性のある演目と、サービス精神に満ちた明るさ。そして、どこか物憂げな表情。

 演技力や構成力、サービス精神のほかに、どこか切実さのようなものを漂わせる彼女の表現は、決してストリップ界のメインストリームではない。だけど、その唯一無二な存在感に惹かれる人は少なくない。

 演劇総合情報誌「えんぶ」のインタビューでは、笑顔の裏にある切実さの理由が、丁寧にひもとかれている。インタビューアーは友人であり、役者/糞詩人である小野寺ずるさんだ。

あのね、私はネットとかで「ブス、ほうれい線」とかって叩かれてるんですよ。

それは私が色んな表情をするから。踊り子さんってシワがつくのが嫌だから無表情気味なの。美しさのためにあえて顔筋を動かさない。でも、私は「シワの一本二本増えたところで元々美しくもねえんだから怖くねえ」って思って。だったら将来どうなってもいいから、ショーの短い時間でも怒ったり泣いたり笑ったり見せた方が面白いんじゃないかなって。

 黒井さんは知性的な顔立ちの人だけど、わかりやすい美形ではないし、男性に媚びるような風袋も選んでいない。ある時、こんなことがあった。ストリップにはオープンショーというカーテンコールのような時間がある。ポーズを取ったり、ただ笑顔を振りまいたり、お客さんをいじったり、いろいろなことをやる人がいる。そして、黒井さんはできる限り客席の人とハイタッチをしようと試みてくれる。しかし、その日はそのタッチを露骨に拒む男がいた。なんだか無性に腹が立ったが、とがめるのも難しく、釈然としないまま男の背中を見ていた。そして、少し傷ついたような顔を見せたけど、瞬時に切り替えて笑顔に戻った黒井さんは、きっと何度もそういうことに傷ついてきたのだろうとも思った。

 しかし、彼女はインタビューでこう語っている。

あとさ、私を嫌いなら客席いなければいいのに、あえて私の目の前でマ○コから露骨に目を逸したりをしてくるお客さんは淋しいんだと思うのね。全ての悪しきことは淋しさが引き起こすよ。だから、私のショーは会場のお客さん一人も淋しくさせないぞって気持ちでやってる。

 ストリップのお客さんには人間的に不器用な人が多い。そして、SNSで確認する限り、ネトウヨがとても多い。少なくとも、私が足をつっこんでいる他のコミュニティではちょっと見ないくらい、ネトウヨ的な誹謗中傷や罵倒の言葉が飛び交っている。

 悲しいことに、うっすらとした嫌韓意識は今の社会では珍しくはないけれど、それにしても目に見えて多いし、その表現も露骨だ。だから、暗い国際ニュースの後などに劇場を訪れ、「この中には露骨にアジア地域の人を見下すような人が混じっているのだ」と思って、いたたまれない気持ちになることが何度もあった。これはコミックマーケットなども同様だし、あっちはその上に女性差別も蔓延しているけど。

 ストリップ好きな人達は「ストリップは優しい世界」とよく言う。私もそういう言説に寄与してきた自覚はあるが、その優しさにどこか懐疑的だった。たしかに踊り子には腰が低いし、訪れた客には親切だけれど、それはストリップという世界を守りたいだけで、優しさとは違うものではないか……。

 しかし、最近つくづく思うのは、そういうお客さんは淋しいということだ。ストリップは基本的に人を傷つけないし、疲れた大人を子どもに戻してくれるようなところがある。それは「癒やし」という言葉で括られるものだろう。ストリップを性風俗たらしめている要素の一つに、この「癒やし」の提供があると思う。そして、「癒やし」を補給しなければいけない淋しさと、見も知らぬ人を差別する気持ちはきっとつながっているのだ。

 そういう人々とどう向き合っていくのかに悩んでいる中、黒井さんの言葉はとても誠実に感じた。このインタビューを、この先何度も読み返すと思う。

 

※久々に読んだら内容すっかり忘れてて、上から目線具合にぶっ倒れました。自身の傲慢の戒めとして残しておきます。あと、最近はスト客のネトウヨ率は中年男性の率としては普通かもしれないと思ってます。それから、寂しさと差別心そこまでイコールじゃないかな。すごく幸せそうな人だってめっちゃ差別するしね。はあ、しかし性格悪すぎるな……。

えんぶ 2019年 08 月号 [雑誌]

えんぶ 2019年 08 月号 [雑誌]