ホンのつまみぐい

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「セッちゃん」(大島智子)読んで泣いてるおっさんキモい

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

セッちゃん (裏少年サンデーコミックス)

 
セッちゃん (裏サンデー女子部)

セッちゃん (裏サンデー女子部)

 

 

 誰とでも寝るからセックスのセで「セッちゃん」というあだ名の女の子。そして、セッちゃんとセックスする、何事にも無関心な男の子あっくん。停滞感の漂う震災後の日本を背景に、ふたりの若者の日常が描かれる。

 

 大島智子の描く震災後の日本では、SEALDをモデルとしたであろうSHIFTという学生による団体がテロを起こす。セッちゃんとあっくんの周囲にもデモに参加して社会を変えようとじたばたする友人がいるが、二人は友人を小馬鹿にしながら生活している。

 

 彼らはデモに象徴されるような社会的現実に動員されることを拒むことによって、日常を維持しようとするが、それは最終的には敵わず、セッちゃんは外国でテロに会って死んでしまうという悲恋のお話。T.V.O.D. のコメカさんの紹介を読んで興味を持った。 

「『ごめーん』とか『ありがとー』とか必要」な世界を拒絶したり、「友達と笑って、テストは20番以内キープして、彼女つくって」生きていく世界に諦観を持ったりできる存在とはつまり、「子ども」である。セッちゃんとあっくんは、「少女漫画にかぶれてる」「悪意の無い計算高さが浅はか」な、あっくんの彼女のまみさんをバカにするけれど、二人ともどこかで、そういう「浅はか」なまみさんの方が大人になれる可能性とその意志を持っていることに、本当は気付いている。

「真相」も「正解」も存在しない。ただ、セッちゃんが少しだけ引き受けようとした主体性が、一体どこに向かう可能性があったのかを考えたい。うたちゃんもあっくんも大島智子も、「こんな世界はセッちゃんには似合わない」と思っているのかもしれないけど、本当にそうなんだろうかとぼくは思う。少しだけ「主体」を引き受けようとしたセッちゃんの方が実は、いつまでも「子ども」みたいな私たちより少しだけ早く、この世界で、「日常」で、大人になるきっかけを掴んでいたんじゃないのだろうか?

 

そういうことを考えるのを繰り返していたら、いつの間にか私たちはたぶん「子ども」ではなくなってしまうだろう。「セッちゃん」を読んでどうしようもなく感じる切なさも、忘れていってしまうだろう。

 

でも、それでいいのだと思う。

 T.V.O.D. — #TVOD Essay27 「セッちゃん」のこと/comeca

 

   私はセッちゃんに切なさを感じない年齢になってしまった。だから、熱意を持ってこの作品について書くことができないのだが、この作品に寄せられたおじさんたちの言葉がキモかったのでそれについて書く。セッちゃんについてはマンバ通信で土居伸彰さんが論考を寄せている。

 

では、『セッちゃん』という寓話は何を描くのか。それは、「あっち側」と「こっち側」に分かれている世界と、前者の消滅である。「あっち側」と「こっち側」。それは『リバーズ・エッジ』にも共通して存在するテーマだった。主人公のハルナは「こっち側」の人間で、しかし、河原の死体の存在を共有の秘密とする美少年の同性愛者山田くんや人気モデルの吉川さんたちとの交流を通じて、退屈な「こっち側」の日常のなかで、「あっち側」を垣間見る。しかし、最終的にハルナは、「あっち側」には行かない(行けない)。「あっち側」は河の向こう側の世界のように、手の届かぬ場所として存在し続ける。退屈な日常そのものは脅かされることはない。

セッちゃんは、震災によって存在が許されなくなってしまった「あっち側」の世界──露悪的だったり、虚無的だったり、退屈だったり、無価値だったりすることによって、「こっち側」の現実に反逆したり逃避したりするための領域──である。『セッちゃん』が語るのは、そういう世界が消えてしまったということなのだ。あらゆる人が、すべてが「現実」に向き合わなければならず、「あっち側」にいることが許されず、技術によって賢く(もしくは皆が共有する物語に「バカ」として相乗りすることで)「こっち側」にいつづけることを要求するそんな時代がやってきてしまったことを、『セッちゃん』は描いているのだ。そんな時代においては、「セッちゃん」は死ぬしかない。岡崎京子が描き出したような「退屈な日常」、「平坦な戦場」といったものは、真の意味において「あっち側」に行って、消えてしまったのだ。

 

magazine.manba.co.jp

 

 土居さんの見立ては概ね理解できる。しかし、「セッちゃんは死ぬしかない」と、それはおじさんが言うことなのか。セッちゃんが安心して生きられない社会の責任は、私も含めた中年にもあるんじゃないか。そこで感傷に浸ったり、この作品は真実を言い当てていると興奮しながら言い募るのは、ちょっと無責任なんじゃないか?

 

 そして、そこに「無垢な存在こそがほんとうのことを知っていて、それゆえ私たちはそれを失うけど、その美しさを知ってる分だけほんとうに近い」という種の感傷はないのだろうか。セッちゃんの切なさに涙する人は、彼女に死んでほしかったんじゃないか? 死んでしまえば、彼女は「永遠の運命の女」になるのだから。そんな邪推をしたくなるほどセッちゃんの死はロマンチックに描かれているし、セッちゃんを語るおじさんの言葉は感傷的だ。

 

 しかし、おじさんは本当はセッちゃんを消費したいのではなく、セッちゃんになりたいのかもしれないと思うと、少し納得がいく。あるいは、セッちゃんの存在できる時間軸にエスケープしたいのかもしれない。おじさんはおじさんで「男で中年」として、常に社会的現実に動員されているのだから、そのプレッシャーから逃げたいのかもしれない。

 

(追記:風俗について調べていると、娼婦を過剰に聖母化し、崇め奉りながら、個々の主体性や人間性を無視する人間を見かけることが少なくないが、それと近いズルさも感じる。この誤認はあまり性別を問わず、女性が書いた物語などにも現れる。水商売の女性を「すべてを受け止めるスーパーウーマン」として思い描いてしまう女性はそこそこいる。

 先ほども指摘したが、広くは「女性」。狭くは「少女」「娼婦」を「社会的現実の周縁におり、だからこそ社会から逃れることにできている無垢で自由な存在」と誤認し、崇めたてる思考が本作をロマンチックなものとして読ませていると思う。セッちゃんが誰とでも寝る女の子であることと、娼婦という表象の聖母化は無関係ではないと思う。言うまでもなく、実際には周縁にいる人間は、自覚のあるなしに関わらず過酷な社会的現実にさらされている。)

 

 ところで、『セッちゃん』について「岡崎京子を更新した」という感想もツイッターではいくつか見かけた。しかし、それもいまいちピンとこない。少なくとも、女の子の生き方の選択肢として、セッちゃんの頼りなさにはだいぶ後退を感じてしまう。

 

 セッちゃんがヤリマンなのは自分の身体の価値を自分でコントロールしようとしている感じがあり、その主体性は一見岡崎とつながるものではある。しかし、荒々しい描線で描かれる岡崎京子の女の子と比べると、あまりに弱々しくて見ていてちょっとイラッとしてしまう。その弱さには彼女なりの切実さがあると思うのだけど、少なくとも私にとっては「生きたい姿」ではなく、また、「岡崎京子を更新したか」どうかで言えば、していないだろう。(追記:岡崎京子を無効化したとは言えるかもしれない)

 

 大島智子の絵はだいぶ萌え系の文脈を引き継いでいて、普遍的な可愛らしさがあり、癒やしの要素も感じ取れる。セッちゃんで泣くおっさんに反感を持ってしまうのには、本作が慰安として消費されているのが伝わってしまうからでもある。

 

 でも、この慰安こそが若者にとって切実なのだとしたら、それに文句をいうこちらの方が傲慢なのかもしれない。しかし、このマンガを当の若者がどう読んだかについての言葉はあまり見当たらないのである。

 

 読みながら、『私は貴兄のオモチャなの』(岡崎京子)や、『わたしたちに許された特別な時間の終わり』(岡田利規)について思い出した。『私は貴兄のオモチャなの』のホシちゃんは、好きな人にとことん搾取されてしまうが、とてもタフな女の子だった。

 

 ところで、『セッちゃん』については、ほかにこの文章が面白かった。マンガとしての演出手法や、読み手の感情の変化をもっともうまく言語化しているのはこの評だと思う。「ひとりで勝手にマンガ夜話」、懐かしい……。10数年前によく読んでいたサイトだ。元ネタのマンガ夜話が終わって10年たつ今でも、更新を続けてくれているのはうれしい。

 大島智子「セッちゃん」セイダカアワダチソウはもう生えない

 第一話から「セッちゃん」は誰とでもセックスをする女の子であり、自宅には小学生の妹がいながら父親から疎まれ蔑まれている様子が描かれている。女子の学生からは誰でもやらせる女と噂され、男子からはそんな視線を向けられる。家でも外でも孤立しているような感覚であるが、セッちゃん自身に切迫感は感じられず、セッちゃんを大事にするという男の子の告白をカレーを食べながら聞いても物足りないといった様子で空になった皿をスプーンでカシカシと叩く程度のことでしかない。

 この場面は私がとても好きで、男の子のおそらくかなり勇気のいったろう告白を、当然その前にセックスはしちゃっているわけだけれども、そうした真剣さを空腹と同列に並べているというわかりやすい演出であり、セックスで漠然とした孤独感は満たされないけれども、お腹は簡単に満たすことができるのに、なおまだ何か物足りないといったふうにスプーンでお皿を叩く、という表現が、彼女のセックス観というものを端的に表現している。この場面の直後にあっくんが登場し彼女であるまみとのちょっとした対話が描かれるのだけれども、セッちゃんを蔑むまみの言動に、あっくん自身がまみに対する興味のなさというものをそのまま言葉として読者に表明する。充足できないセッちゃんと満ち足りているような恋愛や大学生活を送っていながら、その実、あっくんが感じる欠乏感というものが、この二人を後々関係づけるだろうことが、この時もうすでに物語の期待として演出されている。

 行定監督は、この映画を「夜の映画」だと語る。監督自身が当時リアルタイムに味わった原作の力強さには抵抗せず、映像作家として、夜の照明や月明かり、町並み、セイダカアワダチソウやススキが生い茂る川辺の暗さ、それらが映える撮影により、BGMを極力抑えた物語世界を構築した。


 一方、「セッちゃん」が映像化されたとしても、そうした暗さも闇も描かれないだろう。夜でなければならない場面がないし、夜である必然性もない。なんとなく描かれた現実世界、それを浅薄だと切って捨ててしまうのは容易いけれども、惹かれるものがあったのも事実である。「リバーズ・エッジ」でこずえは主人公のハルナをこう評する。
「大丈夫よ あの人は何でも関係ないんだもん そうでしょ?」


 あっくんやセッちゃんのことだなぁと直感した。二人は、時代を超えてキャラクター性によって私の中でハルナと繋がったのである。

 

私は貴兄(あなた)のオモチャなの (フィールコミックスGOLD)

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私は貴兄のオモチャなの (FEEL COMICS)

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わたしたちに許された特別な時間の終わり (新潮文庫)

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  この感想を書いた後で見つけた、「デモをする側」であり続けてきた紙屋高雪さんによる評。

 2019年の現在、「あっち側」との距離感は、『リバーズ・エッジ』の頃と比べて相当近くなったと感じられる。すぐそばにあることがわかる。だけど依然として「あっち側」という膜に隔てられたままだというもどかしさが、この作品から伝わってくる。

 デモは身近にある。55ページではシフトのデモに学生たちが共感を述べている言葉が書いてあるし、シフトがテロを起こしてから学生たち自身がその反テロの座り込みを起こす。

 だけど、あっくんとセッちゃんはそこにいない。

 「それじゃない」というわけだ。

 まだそんなことを言っているのか、と左翼のぼくはつい叱り飛ばしたくなるのだが、それも一つの実感に違いない。その実感をデフォルメした作品として、本作はある。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 私も「そんなことを言ってるうちにあっち側どころじゃない場所に動員されるぞ」というのが実感なのだけど、その言葉で人は動かないだろうことは知っている。そして、ぼんやりとノンポリで生きてきた私と違い、活動の場に立ってきた紙屋さんには、私と違う言葉で語ることが出来るし、その資格があるようにも思った。

リバーズ・エッジ オリジナル復刻版

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