百瀬文、おもしろいのだけどいまいち受け入れられないところがある。
模写したヤギの獣姦の風刺画をヤギに食べさせる「山羊を抱く/貧しき文法」も、ポーランドの女性との往復書簡的ビデオレターの応酬「Flos Pavonis」も。
「Flos Pavonis」は長い映像作品で、細部を忘れてしまったので言及しないが、「山羊を抱く/貧しき文法」を見て感じた違和感について書く。
性的に搾取された歴史を持つ「女性」という存在が、性的に搾取された歴史を持つ「ヤギ」という存在に、搾取の歴史が描かれた紙を食べさせるというインスタレーション。
百瀬はヤギの角をひもで固定し、もがくヤギに紙を無理やり食べさせようとするが、ヤギは紙を拒む。拒絶され、呆然とした百瀬は、しかたなくその紙を自分の口に放り込むのだ。
被害体験を持つものが、別の状況では他者に強要する側になるという構図を作りたいのだろうと思う。ねらいは面白いけど、どうにもひっかかる。
百瀬はヤギとのコミュニケーションに失敗した末に、ある種自傷的に紙を食べる。その自傷に「私の作品はたしかに作中に登場する他者を傷つけるような手続きを取っているが、その際に私も一緒に傷ついているのだ」という言い訳めいたものを感じてしまうのだ。
これをうまく説明できずに困っていたが、展覧会「語りの複数性」のために行われたインタビューで百瀬は以下のように話していて、自分の感じたことはそんなに的外れではないのかもと思った。
(百瀬)この作品から自覚し始めたのは、そこにある種の暴力的な構造みたいなことがあるというときに、カメラの前で自分の身体も同じ立場に置かれるということで、何とか自分の中での倫理を担保しようとする心の動きだったんですね。でもそこには同時に、そんな状況にぶち込まれている自分の姿を写してみたいというマゾヒスティックな欲望もあるので、それって全然倫理じゃないじゃんという(笑)。そういう側面がない人にとっては、なぜわざわざそういうことをするのかと、暴力性を感じさせてる部分もあるのかもしれないですね。
たとえ制作者と協力者が双方が作品に登場し、ともに被写体として消費されるリスクを取っていたとしても、作品の制作者と協力者の間には否応なしに権力関係が発生する。そもそも、誰かを撮影して作品にし、それを表に出すというのは、根本的に暴力的な行為だ。これはたとえ穏当なテーマの作品だったとしても変わりない。「暴力性を感じさせる」のではなく、はっきり暴力の一種なのだ。
作家やジャーナリストというのはその暴力性を自覚した上で、「それでも発表する」ことの意味をそれぞれが問うべきである。
それにいちいち「私も一緒に作品に登場して傷ついているから」という言い訳を挟まれると、テーマの深度と関わりなく嫌悪感が湧いてしまう。
むしろ「同時に、そんな状況にぶち込まれている自分の姿を写してみたいというマゾヒスティックな欲望もあるので、それって全然倫理じゃないじゃんという(笑)」という開き直りがもう少し見えていたら、いい意味で印象が変わったかもしれない。エゴイズムのために他者を利用する傲慢を、しっかり自覚していると感じられただろうから。
しかし、この展示で見たいくつかの作品は、自傷的な営みを描くことで作品の発表を担保しているように見えた。それは暴力について、あまりに曖昧で不誠実な態度ではないかと思う。
下記のスレッドは松江哲明作品について語ったものだが、パワハラと自虐の相関に関する指摘は百瀬の作品にも言えることではないか。「私も傷ついているから、みんなも傷つこう」みたいな感じ。こうした状況でも作家は作品という果実を得ることができるが、自傷に巻き込まれた被写体には何が残るのだろうか。百瀬の「私も傷ついているからみんなも傷つこう」は共同的な営みと思えず、そこに彼女の作品の受け入れ難さがあった。
百瀬のこうした権力性に対する無頓着な姿勢が、「性差による不平等(権力勾配)の解消」というフェミニズムの最も根本的な部分と噛み合っていないように思う。
パワハラ的なドキュメンタリーの走りは、田原総一朗のテレビ番組『日本の花嫁』で、続いて、同番組スタッフでもあった原一男が、『極私的エロス』で自虐的な手法を生み出す。
— ブラック・ギロチン (@kubotakashi1313) 2019年12月15日
自虐とパワハラは親和性がある。
俺も曝け出すから、みんなも曝け出そう、みたいな感じ。
日本映画学校の
続
また、この展示については以下のスレッドに共感することが多く、特に「Flos Pavonis」でのポールダンサーに関する言及については全面的に同意した。自傷行為に他者を利用する倫理的危うさを指摘しつつ、ポールダンサーは百瀬の閉じた世界観から逃れているという見立てが行われている。
さきの日曜日は横浜で展示巡りをして大収穫の一日だったのだが、その後もあとを引いてツラツラと考え続けているのはヨカッタ展示ではなく見たときは腑に落ちなかった展示のほうだったりする。具体的には田代一倫との二人展で見た百瀬文の展示であり、その最新作である《Flos Pavonis》についてだ。
— 3 (@drawinghell) 2021年10月16日
https://twitter.com/drawinghell/status/1449332851221041155twitter.com/drawinghell/status/1449332851221041155?s=20