ホンのつまみぐい

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10月に読んだ本・マンガなど

 不可視化されている怒りや悲しみを繊細な描写を積み上げて読者に突きつけるところが樹村みのりの魅力だと思うので、期待していた新作は明解すぎて少し物足りなかった。

 『ふぇみん』や『女性学・男性学』への寄稿のように、媒体に沿ってそういう表現を選んでいる場合は気にならないのだけど。

 それはともかく、長らく品切れだった本書が復刊されたことは素直に喜びたい。

 

 

 

 安定の躍動感と可愛さ。憧れの配信者と偶然仕事先で出会い、連絡を取るようになった琴乃は……という話で、オチまで読むとだいぶ印象の変わるテーマだと思う。連載時、ファンと距離を取りたがるコスモの対応に対し、コミックゼノンのコメント欄ではコスモに厳しめの意見も目立っていて、こういう仕事の難しさを考えさせられた。

 

 『あーとかうーしか言えない』の作者の無料配布。

 

 それなりに面白いんだけど、SNS的な「うまいこと言う」話法の弊害にうんざりしていると、俗語に落とし込むことで分かった気になれる本を気軽に肯定はできなくなる。

 

 「あ~~、そういやこの頃こんなこと言ってたな」と思い出しながら読んだ。大森靖子がどうして今の場所にいるかを考えるのに重要な本ではあるが、楽しくない読書だった。

 

hontuma4262.hatenablog.com

 

 

kuragebunch.com

 ペス山さんは本当にマンガがうまい。絵を見ているうちに人物の気持ちが伝わってくるというのは、実は並大抵のことではない。『ボコ恋』では『女の体をゆるすまで』で描かれた、確信とも言える部分にはふれていないけれど、ペス山さんのいきいきした表情を見ていると心を強く動かされる。

 『女の体をゆるすまで』にX氏が「ペス山さんの作った素材今でも使ってます」「嫉妬していました」という場面があるけど、あれはおべっかではないと思う。

 

www.youtube.com  仕事が進まないときに見たので襟の正され方がやばかった。

 

mediag.bunka.go.jp

 「実体験をする以外で本当に戦争を知るためには、戦争について書かれたしかるべき本を読めということになる。」「戦争についての知見って、本当は歴史を学ぶ以外に持ちようがない。」ということをエンターテイメントの批評家が語ってくれたことに心強い気持ちになる。

藤津:アニメから戦争を知ることができるとすれば、それは何か細かいディティールについてのことでしかなく、実体験をする以外で本当に戦争を知るためには、戦争について書かれたしかるべき本を読めということになる。アニメはエンターテインメントの要素として戦争を取り入れているし、真面目に取り扱っているように見えるものでも結果的には消費していると言えます。その批判は免れないし、そういうつもりで付き合うしかない。だから『アニメと戦争』は「我々には戦争を消費しても後ろめたさが最小限である社会に生きている幸福がある」というつもりで書いています。その根っことしては、自分が子どものころ、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』が好戦的だと言われていたことにあります。確かに好戦的かもしれないけど、それだけではないという気持ちがもやもやとあったわけですね。それを大人になって整理したときに、小田切さんが言うように「フィクションと現実を混ぜすぎないほうがいい」ということに帰結したわけです。現実はフィクションに反映されているけど、フィクションから現実を取り出すことはできないということです。

田切:コンテンツから現実を取り戻そうとする内在論への違和感がありますよね。戦争はコンテンツと現実の相関関係からしか語ることができないという前提がないと、まずいとは思います。

藤津:そこは本当に同意です。戦争を他人事としてフィクションで楽しめる幸福という戦後日本があり、消費社会の申し子である「オタク」がそのなかに居たわけです。

藤津:「戦争ごっこ」の「ごっこ」というのは決して揶揄しているわけではなく、「本物ではない」ということなんですよね。本物の戦争というのは、皆が当事者になり、銃後で働いたり前線で戦うことだとしたら、それ以外のエンターテインメントは基本的に「ごっこ」であると最初から覚悟するべきです。フィクションで何かをわかった気にならないためにも「ごっこ」と言いきるべきだと。そこは小田切さんが『戦争はいかに「マンガ」を変えるか』で書かれたことも同じかもな、と思います。

田切:例えば小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(幻冬舎、1998年)などで語られる主張も、「戦争ごっこ」だと思いながら読まなければいけないと思うんです。ああいうコンテンツで語られる国家への忠誠や国際関係へのあり方みたいなものを現実と地続きな、あるいは抽象化された普遍的な構造として理解することは危険です。小梅けいとによってコミカライズされたスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチのノンフィクション『戦争は女の顔をしていない』(原作:1985年、コミック〔第1巻〕:KADOKAWA、2020年、速水螺旋人監修)も、コミックス版はキャラクターにしている時点で「ごっこ」ではあるでしょう。戦争についての知見って、本当は歴史を学ぶ以外に持ちようがない。「現実的なものを題材として取り扱っていれば現実に近い」という見方はすべきじゃないし、フィクションからすべてを学べるというのは倒錯していると思います。どういう時期に、どういうかたちで受容されていたのかという話をしない限り、作品は語れない。作家も社会のなかにいる人の一人ですから。