『女の体をゆるすまで』の作者・ペス山ポピーさんにインタビューしました。
記事には書ききれなかったことを、少しこちらに書きます。
本作の読後感は、誠実な児童文学を読んだ時のそれと、とてもよく似ています。
児童文学は、子どもたちの生を祝福し、支えようとする文学です。
ですから、限られた力しか持たない個人が、極めて過酷な環境に置かれながら、それでも生きていこうとする、その道程を描くことがよくあります。
『女の体をゆるすまで』はコミックエッセイですが、ペス山さんが過酷で理不尽な体験と戦い、それらを乗り越えようとする姿は、児童文学の主人公たちと重なるものがあるように思います。
たとえば、ペス山さんは小学生の頃、スカートめくりをした友人に大激怒します。「私の人格と体が他人の楽しみのために勝手に使われた」と、当時の感情を的確に言語化してくれるその姿に、思わずエールを送りたくなってしまいます。(「私の人格と体が他人の楽しみのために勝手に使われた」って、あらゆるハラスメントに通じる怒りではないですか?)
また、親友と言っていい幼ななじみの男子に、一緒に風呂に入るように強要されて深く傷ついたこと。トランスマスキュリンという性自認を自覚した思春期、大切な女子の友人にとって、自分は加害性のある存在ではないかと悩んだことなど……。身近な人に相談するのは難しい、けれど当人にとって極めて重大な事柄がとてもわかりやすく描かれています。
成人したペス山さんは、アシスタント先で受けたセクハラによりPTSDを発症し、女性の身体で生まれたことそのものに怒りや憎しみを抱くようになります。
自分の身体を憎み、それゆえにミソジニーを内面化してしまったペス山さんが、「自分自身が助かりたい」と声に出し、加害と対峙していく様子が、本作では描かれています。
弁護士やカウンセラーに相談を仰ぎ、自身の過去と向き合い、最終的に加害者に直接被害について問いただす。
読者はその姿を見ながら、「他者の尊厳を傷つけようとする存在」に対し、以下に対峙すべきかを学んでいくことができます。
また、ペス山さんが自身の抱えるミソジニーと対峙する姿も描かれています。自己否定を繰り返していたペス山さんが、「女の体が悪いんじゃない」という結論にたどり着く場面はとても印象的で、胸に迫るものがあります。
一方で、解決しえない物事もしばしば描かれます。
たとえば、ペス山さんの友人のゼラチンさんはかなり深刻な性暴力を受けています。しかし、ゼラチンさんはそのことを気にしていないと言い、ペス山さんに「ポピーちゃんが繊細なんじゃない?」と返します。「一緒に助かりたい」と思っていたペス山さんは彼女の回答に驚き、自分がゼラチンのことを描くことは果たして正しいことなのかと葛藤します。
また、大好きなお笑い芸人の、トランスジェンダーに対する悪意のない無理解に傷つきながら、自覚のないまま差別をしてしまう人と、どのようにして対話をすればよいかについて考えます。
わかりあえない他者と対峙し、すれ違いを描きながら、それでも対話の可能性を手放さない。
さまざまな出来事に傷つきながら、勇気を出して他者と関わりあい、生きようとするペス山さんの姿は、かつて多くの児童文学で描かれてきた主人公たちの姿と重なり合います。
そこには、生きるための勇気と知恵と希望が、とてもわかりやすく描かれているからです。
開かれているけど、探そうとしないと出会えない、図書室のような場所に、本作がたくさん置かれてほしいと思います。
性にまつわる事柄が直截に描かれているので、選書ではじかれてしまうかもしれませんが、複雑で言葉にしにくい事柄をこんなにわかりやすく描ききり、なおかつ読んだ人を勇気づけてくれる本は、なかなかないからです。
なるべく多くの人に手に取ってほしい、2021年を代表する作品です。