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『ルックバック』(藤本タツキ)読後の率直な感想※ネタバレあり

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 「妹が姉の裸の肖像画を想像で描いて学校に貼りだす」という『妹の姉』を読んだ時に、「とにかく芸術や文化が好き。そこには必ずでっかい愛があるから」というシンプルな信仰心がある人なのだろうと感じた。しかし、すでに多くの人が指摘しているように、「モデルの存在する全裸の絵を当人の許可なしに展示する」なんてことはやっていいはずがなく、それをいい感じに着地させてしまうところを見るに、「無邪気だけど致命的に繊細さを欠く」人なのだろうという印象を受けた。

 細かい問題点は以下のブログに詳しい。

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 まだ最新刊まで追い付いていないけど『チェーンソーマン』を読んだ時も「無邪気なかわいらしさがあるが、出来事に対して繊細さを欠く」という印象は変わらなかった。

 143ページの無料公開で話題になった『ルックバック』は、マンガを描くのが好きなプライドの高い女の子・藤野と、まったく角度が違うが秀でた画力を持つ引きこもりの女の子・京本の物語だ。藤野と京本は小学校の学年新聞に載せたお互いのマンガをきっかけにひかれあい、ふたりで共同でマンガを作り上げる仲になる。

 高校生になった二人には連載の打診が来るが、マンガの道に進む藤野に対し、京本は「もっと絵が上手くなりたいので美大に進む」と主張し、それぞれが別の道を進むことになる。

 そして、藤野の作品がアニメ化される頃、京本は美大を無差別に襲撃した殺人犯に殺されてしまう。

 自分が京本と出会わなければ、マンガを描いていなければ。彼女は引きこもりのまま、死なずに済んだのではないか。自責の念にかられる藤野。しかし、京本の部屋で彼女が遺したものに触れ、笑いながら制作を楽しんでいた過去を思い出し、再びマンガを描き始める。

 本作も「芸術や文化に宿るでっかい愛」の話だ。ふたりの女の子の姿とその間に生じる悲劇を持って、文化の持つ力を描いている。

 負けず嫌いの藤野がたくさんの絵画の参考書を購入するのも、引きこもりの京本を外に出して大学に進学させるのも、藤野の背をもう一度押すのも文化の力だ。藤本タツキの描き手としての矜持や覚悟が表れていて、心を動かされる人がいるのもわかる。

 しかし、私の読後の率直な感想は「こんなに重大な傷を急いで文化で癒さなくてもいいのではないか」というものだった。同時に「これは文化に対する愛の表明だから、作者にとっての必然なのだろう」とも思った。

 とはいえ文化に対するラブソングを描くのに「親友が無差別殺人事件で殺される」を舞台装置にするのはちょっと行き過ぎではないか。藤野と京本の行動の動機が徹底して文化に紐づけられているのも明快すぎて、人物としての陰影を欠いてはいないか。

 ぼんやりと「悪い人じゃないんだろうけど、やっぱり出来事に対する繊細さを欠くんだよな」と思った。

 そんな風に結論づけた後、世間の反応を見ると「京都アニメーション放火殺人事件への追悼ではないか」という見立てが盛り上がっていて、「実際に起きた事件を基に物語を作ることや、それを発表する際の媒体側の配慮」について議論が紛糾していた。

 前日に「事件から2年」というニュースを見ていたのに、まったく思い至らず、なんだか亡くなった方々に申し訳ない気持ちになった。

 さておき、その見立てを採用するなら「これはない」となるのもわかる。特大の愛が描かれているけど、それは文化に対する愛で、人間の営みは文化のための舞台装置になっているからだ。

 言っておくが、「文化>人間」という世界観をフィクションで成立させることは決して責めるようなことではない。また、これをもってして現実の藤本が人命を軽んじる人間だと断じているわけでは決してない。

 しかし、「文化に対する巨大な愛を描く一方で、人間の描き方が平板という欠点をそなえた物語」が大ウケして、多くの人に「鎮魂の物語!」と語られているのを見たら、一言はさみたくなるだろうと思う。

 そもそも、鎮魂は本来個人的で果てのないもののはずだ。しかし、SNSを通して感想がばらまかれ、共感しやすい物語が見いだされることで、個人的なものであるべき鎮魂が均質化されてしまう。

 ただ、そこまで行くと作者の罪ではなく、さりとて京アニ事件を連想して救われたような気持ちになった人が悪いとは言い難い。あえて言うのなら、SNSなどを通して作品の感想が気軽に共有できることにより、気持ちを清算することがあまりに簡単になってしまった昨今の状況の弊害と感じられる。

 しかし我々がSNSと付き合い始めて長いこと経っているし、デリケートな題材に対しては、ネットの濁流のような意見の交換とはいったん「距離を取る」というのを徹底してもいいのではないか。特に、今回のように現実の死や時間を巻き込まざるを得ない作品に対し、共感の喜びを優先して語りまくってしまうと、失われ、ゆがめられててしまうものも多いだろう。

 「集英社の公開方法はデリカシーがない」という意見もだいぶ出ていたが、京アニ事件をまったく思いつかない状態では、特にそういう印象は受けなかった。しかし、事件翌日の公開などが”仕込み”であれば、それはたしかに品がなさすぎる。『アクタージュ』や『キン肉マン』などの顛末もあるし、「少年ジャンプ信頼できん」という人々の気持ちは否定しがたい。

 また、殺人犯に統合失調症の幻聴を特徴づけたことを批判する意見がいくつも出ていて、それはたしかに不用意であり、批判されるべき点であると思った。自分は全く気が付いていなかったが……。

 余談だが私個人は、京アニ事件との関連をイメージする前と後とで、作品に対する感想は変わらなかった。

 

 

 

 追記:とても読みごたえのある文章が書かれていて、もっと読むことに誠実にならなくてはと自戒。

 私は本作を「文化(才能)>人間」という思想を基にする物語として読み、今でもその印象にゆらぎはない。出来事に対して結論が性急すぎるとも思う。結論が性急すぎると感じるのは、「本来描かれるべきことが描かれていない」からなのだと思うが、それが何かを説明できない。それは「落ち着いて作品を見る」ことを徹底していないからなのだと思う。

 ところで、「なぜ主人公が女性なのか」もひっかかる。『妹の姉』は最悪の物語展開だが、女性にする意図は明白であり、必然だったとわかる。

 単に作者が女の子が描きたかったからというのも考えられるが、女性同士の物語にすることで『ルックバック』が得ているもの、失っているものについて考えることには意義があるはずだ。

 

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