去年の写真が出てきたので備忘録的にペタリ。川俣正のインスタレーション「都市への挿入」の写真。いつもの感じだけど、工事現場の足場の部分を使っているのは珍しい。 会場がBankART Station、BankART Temporary、馬車道駅構内と3つに分かれていたけど、2つしか回れなかった。明るいのが駅構内で、暗いのがBankART Temporary。
ところで、ヨコトリプラスというホームページの↓の文章にしょっぱい気持ちになった。
現在、急ピッチで開発が進む、みなとみらい地区。建蔽率を抑え、容積率をボーナスし、数十%の面積を市民へ開放する等のルールが効果を発揮し、市民に開かれ、工夫をこらし美しくデザインされた建築群の街が誕生しつつある。ところが、街全体を見渡すと、この地区を楽しみ、散策するようなネットワークされたルートがないことに気づく。いくつかの軸線は設けられているので、近い将来は展開するかもしれないが、それにしても街としての親密さが感じられない空間が続く。
→わかる。
インスタレーションの都市への挿入は、プロセスそのものが、見る人がそれまで気づかなかった都市の構造や仕組みをディスクローズしてくれる。「空き地」や「眠っている場所」は役に立たず、生活に関係のない場所だと思われがちだが、そういった場所にこそ、都市の新しい可能性が隠されている。
→まあ、わかる。
それまで他人の領域には無関心な、ここで働く人、訪れる人が、都市の中に自らの場所を見つけ、都市に住まわされているのではなく、都市に積極的に棲んでいこうとすることを、このプロジェクトから感じることができるはずである。
→そうか?
アートの人とそうでない人の距離を感じるの、このへんよな。
みなとみらい線馬車道駅の構内は乗降者数のわりに広いので、ギャラリー、同人誌即売会(コスプレもあり)、ダンスイベントなどなどさまざまなことに使われた実績がある。川俣の作品だって、「ここで働く人、訪れる人」は「趣味人が勝手にやってるわけのわからない何か」の一環だと思ってるんじゃないだろうか。
「均一化された都市の中に異物を持ち込む」のが目的なら、それはそれで意図通り受け取られているのだろうけど、それはアートじゃない人たちだってやってることなわけで。
なぜ川俣の作品だけが「都市の中に自らの場所を見つけ、都市に住まわされているのではなく、都市に積極的に棲んでいこうとすることを、このプロジェクトから感じることができるはずである」なんていう壮大な心の変化をもたらせると思えるのだろうか。そもそも「棲んでいこうとすることを、このプロジェクトから感じることができるはずである」ってなんとなくはわかるけど日本語おかしい。
川俣正が公式ホームページで出している声明(↓参照)はここまで言ってないので、この紹介文を書いた人の見解だろうと思うけど。それくらい強い美術に対する信頼も大事なのかと思うけど。やっぱりちょっと距離というか、内輪感を感じてしまうよな。ディスクローズとかいう言葉遣いも含め、その壮大な目標に反して、開かれた感じがしない。
未就学児童に語り掛けるような懇切丁寧さは必要ないと思うけど、閉じた世界か、開かれた世界かはしっかり見られていると思うのだが。