ホンのつまみぐい

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『中間管理録トネガワ』の悪い意味で現代的な部分。そしてダ・ヴィンチ・恐山への反論

 

  断片的にしか目にしていなかった本作を全巻読んでみた。正直かなり不気味な終わり方をしていると感じたので、それについて書いている。以下、最終回のネタばれあり。

 このマンガがすごい!2017年オトコ版1位ということもあり、期待値高めだったが、まとめて読むと途中のネタ切れが目に見えてちょっと苦しい。利根川が会長に振り回される様子が笑いどころのひとつだが、ここが楽しめなかったのもおそらく大きい。また、洗脳モノに恐怖を感じるたちなので、まさやんのエピソードは怖かった。

 利根川の下に部下として着いた黒服たちが、キャラクターとして個性を出してきてからのサラリーマンあるあるネタの方が面白く読めた。ここは自分が管理職未経験だからもあるかもしれない。とはいえ、社会人あるあるとして面白く読めるし、福本作品の個性や技法をうまく使っている。

 問題はラストだ。

 スピンオフでは利根川は一貫して部下に気を配る頼りになる上司として描かれていた。しかし、最終回直前でEカードでの敗北を示唆する演出が入り、最終回は利根川を慕っていた黒服の山崎が、いなくなった利根川に思いをはせながら終わる。利根川がどうしていなくなったのかは、山崎たちには知らされていないようだ。

 同僚の黒服たちは、あるものは帝愛をやめて新しい会社をはじめ、あるものはマンガ家になり、あるものは銀行に転職し、あるものは帝愛にとどまり……と進退を分けていく。そんな中、帝愛で働き続けることを選び、出世した山崎による「人生は何が起こるかわからない。状況が悪くても、諦めず行動し続けなくてはいけない。それが利根川先生から学んだこと」という主旨のモノローグが流れ、最後のページは海辺に立つ利根川の後ろ姿で終わる。

 山崎のモノローグ中の「おそらく人は・・死ぬまで途中・・!」は『賭博黙示録カイジ』中盤のモノローグ「途中・・・・・・・・・・・・途中、途中、途中・・・」を意識しているのだろう。

 さまざまな悩みや葛藤があり、中には岐路を分かつ者もいるが、それでも自分なりにやっていこうという山崎の決意。サラリーマン群像劇と見れば穏当なラストではあるけど、『カイジ』本編の読者としては「とりあえず目の前のことを精一杯こなしていこう」と語らせる終わり方には疑問が残った。帝愛のような企業で「置かれた場所で咲きなさい」をやっても搾取されるだけだろう。

 本編を知らなければ、ブラックだけどやりがいのある会社の、優秀な中堅社員が出すひとつの結論として受け入れられたのだろうか。とはいえ、『トネガワ』でも会長の理不尽さは描かれてはいる。

 最後に描かれた利根川が「海辺にたたずみながら朝日を見る姿」というのは、帝愛から解放されて新たに生き直すという描写だろう。社会から理不尽に追い出された人間にも夜明けが訪れるという含意が組み取れる。この描写から考えると、作者の萩原にブラック企業そのものを積極的に肯定する意図はないだろう。

 また、『一日外出録ハンチョウ』や『上京生活録イチジョウ』を読むと、萩原が人と人との間に生じる小さな支えあいに心を配り、それを作品に反映できる人であることもわかる。ある意味、悪人が描けないタイプなのだろう。

 しかし、「それぞれの生き方を尊重しながら人と心を交わして生きていこうとする人間たちが、自分たちを搾取する存在に怒りを燃やすことができない」展開に、不気味なものを感じずにはいられなかった。

 ここで私は一部のスピンオフの読者が口にする「利根川はいい上司なのに、カイジみたいなクズに負けて焼き土下座に追い込まれるのがかわいそう」という意見を思い出す。しかし、これは明らかにお門違いだ。Eカードに勝利したのはカイジだが、焼き土下座を指示するのは会長なのだから。しかし、そうした読者が否定するのはカイジの方なのである。

 SNSなどの感想を見たところ、こうした読者がカイジを「クズ」と表現する時の根拠は、「働いていない」こと、もしくは「ギャンブラーになっている」ことのようだ。たしかに、カイジは連載が進むごとに一般社会への回帰が難しい人間になってしまっているが、それでも「コツコツ働く人殺し」より「人命を救うギャンブラー」のほうを「クズ」という感覚はわからない。あるいはカイジが自分で借金を作ったと勘違いしているのか。彼の借金は、うっかり知人の保証人になったことから始まっているのだが……。

 「金は命より重い」を真に受けて、「殺されてしまったのはかわいそうだけど、それは彼ら債務者が金を払えなかったから仕方ないことである」という感覚でいるのだろうか?

 ここで溝口敦の『武富士 サラ金の帝王』にある、以下の記述を思い出す。

 サラ金会社も悪いが、借りる方も悪いという見方がある。この論を一歩進めれば、借り手はサラ金から金を借りたのが悪いのだから、何をされても仕方がないという理屈になる。しかし、金を貸したあとで、人を悲惨な境遇に突き落とす権利を授けられるものだろうか。金はそれほど万能ではないし、もともと万能であってはならないものである。

 そう、金はそれほど万能ではないし、そうであってはならない。また、労働に励まないことを理由に、人権が奪われるようなことがあってはならない。当たり前の話だ。

 カイジをわずわしく思い、利根川や大槻に共感する読者は、あまりに内面を労働に奪われていやしないか。

 「カイジが勝ったせいで」という発想の読者に感じる「自分たちを搾取している権力者より、それに異議を唱える第3者のことをわずらわしいと思ってしまう感受性」も、「たとえいざとなったら切り捨てられるような環境でも、とりあえずコツコツがんばろうという思考停止」も、どちらもあまりにも権力に都合がよい。

 萩原天晴作品ではしばしば男性同士のケアの様子が描かれる。彼らの有り様はたしかに心地よく、魅力的だ。いい意味で現代的な人間像を描くことに成功している。しかし、ケアによって怒りや憎しみを小さくしぼませ、従順と表裏一体の善良性によって人々が支え合う世界は果たして本当に居心地のいい世界なのだろうか?

 スピンオフはあくまでギャグマンガだし、切り分ければいいのだが、前述のように「利根川に心を寄せてカイジを疎ましく思いながら、会長の横暴は笑ってやり過ごす」読者の一定数の存在を目にしてしまうと、どうしても少し気味悪く感じてしまう。

 

 

追記:上の文章を書いた時は「うがちすぎだろうか」という不安があったのだけど、いやいや、「真に受けてる」人いるじゃないか。

 

tree-novel.com

カイジ』スピンオフは原典への鋭い批評にもなっている。カイジの奥には現状に不満を抱え、のし上がるために命を賭ける飢えた魂がある。それこそがカイジという人間の魅力を形作る核だといっても過言ではない。しかし、スピンオフ作品群は悪役キャラを通じて「そこに幸福はあるのか」と問いかける。


利根川、大槻、一条は、それぞれカイジが向き合わなかった立場に生きる人間だ。利根川は「責任ある大人」を演じ、大槻は「労働者」として暮らし、上京したばかりの若き一条は「出世を目指す若者」として努力しようとする。

 

 そりゃあ、「カイジみたいな生き方よりハンチョウにおける大槻みたいな生き方のほうが幸せじゃない?」ってみんな思うだろうけど、それが搾取を受け入れることや、働いていない人間には生きる価値がないと言い出す自己責任論と結びつくなら、全力で拒否するわ。

 そもそも利根川も大槻も一条もイカサマ使って金儲けしたり、人の命をもてあそんだりしているのに、なんでそれを忘れてこういう大喜利ちっくなコラムのために利用できるのかな~~。