ホンのつまみぐい

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10年経っても滅びない痛みについて「女子をこじらせて」雨宮まみ

 この本を評価したり分析したりすることは、雨宮まみという女性の人生を切り刻んでしまうことではないか。そんな風に思えてうまく言葉が出ない。

 雨宮は徹底的に過去の自分を恥じている。そして、その「恥ずかしい自分」の輪郭をわかりやすく掘り出し、形にして見せようとしている。

 雨宮が恥じていたという過去は、「自分は女として相手にされない人間だ」と思い込みながら、それを何とか打開するためにバニーガールとして働いたり、好きでもない人と恋愛ごっこをしたりと、みっともない生き方をしていたことを指す。

 雨宮は自身のこうした葛藤の日々について、「自分の中の他者の視線」を内面化していたことが原因と分析し終えており、それより自分を尊重し、「誰がどう思うかじゃなく、自分が本当にしたいこと」をやるべきだと結論付けている。

 本書を一読すれば、これは男尊女卑社会の中でもがき苦しむ女性が、それによって生じた痛みをつづった本だとすぐにわかるだろう。また、発売から10年を経た今、自身を「こじらせ」などと定義づけることは、むしろ内面を傷つける行為だと多くの人がすぐに気が付けるはずだ。それは雨宮も理解している。

 しかし、理解しているにもかかわらず、収録の久保ミツロウとの対談でも、あとがきでも、雨宮はもがき苦しんでいるのだ。

 2011年12月に発売された本書のあとがきで、雨宮は東日本大震災が起こった時に「ああ、自殺じゃない、やむを得ない形で死ねるかもしれない」と思ったと書いている。

 他者と自分を比べるのをやめたら、新しく自分の欲望と向き合う苦しみも生まれる。正しい考え方ができたことで、多少軽くなったとしても、苦しみという荷物そのものが消えるわけではないのだ。望む姿で生きられない絶望も、社会がかけてくる呪いも、そのままそこに存在するものだ。

 ひどく勝手なことを言えば、雨宮は「望むこと」をやめればもう少し楽に生きられたのではないかと思う。だけど、生きるというのはそんなに簡単に調整できるものではないのだと、私ですら骨身に染みて理解している。

 この本の中で印象的なのは、全体を覆う自虐的なトーンだ。久保との対談で、雨宮は「自虐でキャッキャ言い合って盛り上がるのが楽しいっていうのもある」と話している。大人の女性たちが話しあう時に、そういう言葉使いを選ぶ姿は想像しやすい。

 でも、この感覚はもう古いものとして片付けられている。自虐的な語りでブロガーとして人気を博していた少年アヤは、「おかま」という自称を捨て、自虐を共通言語にして遊ぶことをやめた。彼の当時の変化の過程が記録された『尼のような子』『少年アヤちゃん焦心日記』が出版されたのが2014年。自虐的であることは、このあたりから少しずつカッコ悪いこととされていった記憶がある。

 2017年頃、ラップをやっていた二回り年下の女の子が、「自虐はダサくなった」といい、ほんの半年前に作った曲を封印していったのをよく覚えている。あの頃は「エンパワメント」という言葉が流行っていて、あっこゴリラたちがその言葉を体現しようともがいていた。

 ただ、その「エンパワメント」やそれに類する言葉も、自己啓発的な発想との親和性ゆえか、見かける機会がずいぶん減ったように思う。

 自虐もエンパワメントも女性たちの会話の中では少しずつ姿を消していったように思うけど、雨宮が自虐の中に込めていた苦しみが、世界から消えたわけではない。ドロドロとした哀しさは、誰かに拾い上げられることもなく、ただただ広く沈殿し、滞留しているように感じられる。

 こうしたウェットな哀しさは自分の中にも強く残っていて、この本を読むと雨宮の痛みに共感すると同時に、「いつまでもこんなことで苦しんでいるなんて自分はなんて幼稚な人間なのだろう」という心の声が聞こえてくる。それは自虐でもエンパワメントでも片づけられない感情で、年を取るごとにより強く自分をさいなみ続ける声である。

 まだ、この声から逃れる術について、知ることができていない。

 

女子をこじらせて

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尼のような子

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焦心日記 (河出文庫)

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令和GALSの社会学

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