ホンのつまみぐい

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興味深いが首肯できない箇所も多い本「娼婦たちは見た イラク、ネパール、中国、韓国」(八木澤高明)

 ネパール、イラク、中国、韓国の娼婦たちに話を聞くルポルタージュ。「娼婦たちの見た戦場」という題の単行本の新書化。戦争や貧困にさらされ、結果的に娼婦という選択肢しか選べなかった女性を中心に取材している。


 イラクにおけるロマの娼婦。中国の戸籍なき女、黒孩子問題。韓国米軍基地村。ネパールの男娼・ヒジュラや幼児婚など、耳慣れない話が多い。しかし、どの取材地にも女性蔑視や貧困が存在し、娼婦たちがそれらの問題に苦しめられていることがよくわかる本だ。


 ネパールのデウキの話があまりにもひどい。デウキは10歳ごろにヒンドゥー教の寺院に捧げられ、生理が来ると村の有力者たちに犯され続け、父親のわからない子どもを生む。「寺院に捧げられる」というと聞こえはいいが、金に困った家族に売られるというのが実態だという。


 娼婦として役に立たなくなったデウキは何の支援も受けられないまま放置される。まるで中世の物語のようだ。しかし、本書には打ちひしがれ、乞食のような姿になった老デウキへの取材と写真も掲載されている。ずだ袋にくるまり、日に焼けた真っ黒な皮膚にやせこけた身体で、著者に金を乞う。小さな写真に納まる娼婦の姿は、これが近現代の出来事であるという事実を読者に突き付ける。


 ただ、本全体には首肯できない箇所も多い。娼婦という職業特有の問題と、貧困や社会制度がもたらす問題が混同されている箇所があること。色街や古い慣習へのオリエンタリズムを公言し、人権侵害から目をそらしている箇所があることなどだ。


 著者はデウキや幼児婚がどれだけ残酷なものかよく知っている。にもかかわらず、そうした風習を否定するNGOの女性職員に対し、「欧米第一主義の物差しで図っていいのだろうか」という疑問を呈す。


 著者の八木澤高明は長年にわたりネパールで生活し、離婚経験もある。そこでの経験から、欧米史上主義的な政治や思想が、社会や文化を壊していると感じていたのかもしれない。しかし、その文化の中で社会的弱者が踏みつぶされ、尊厳や生命を奪われていくようであれば、それは改めるべきである。正直ここは疑問を呈す水準のことでないように思った。


 また、アメリカに色街がないことを薄気味悪く感じる描写がある。性風俗を隠す心情に差別心があることは間違いなく、排除される娼婦を見てきた彼としては思うところがあるのかもしれない。しかし、色街を恋しく思い、アジールと表現するその心理には、ある種のオリエンタリズムがあるのではないのだろうか。


 もっとも問題なのは従軍慰安婦に関する章。問題の矮小化につながる事例を次々挙げていて、これまでの著作に敬意を表していたこちらとしては失望を隠せなかった。オピニオンのために事実を単純化しないのは大切だが、被害者のいる出来事については「その言論がどう利用されるか」についてまで考えてほしい。


 著者はクマリ(ネパールの処女神。少女のころから神としてまつられるが、初潮を迎えると還俗する)について、「そこから見えてくるのは、神とは結局男が女を支配するうえでの、男の化身にすぎないのではないかということである。それ故に、女には純潔さや清浄さが求められる」と書く。そうした構造を見抜く冷静さと、先に挙げた身勝手な解釈がいまいち一致しない。


 ただ、公娼制度が日韓併合により韓国に持ち込まれた話や、纏足の女性への取材など、性風俗や貧困に関する見識を広げてくれる情報があちこちに散らばっている本ではある。韓国の娼婦たちがストライキを行っている話も印象的だった。単行本時に存在したタイの章がまるまる削除されているのでそのうちチェックしたい。

 

 ところで、本書の感想に取材先で娼婦たちを買う著者の行動に対する批判がいくつかみられる。しかし、性風俗自体は仕事の一つなので、それそのものを否定する必要はないのではないか。搾取されている相手に対して、「買うことでさらなる搾取に加担するのではないか」という問いならわかるが……。

娼婦たちは見た イラク、ネパール、中国、韓国 (角川新書)

娼婦たちは見た イラク、ネパール、中国、韓国 (角川新書)

 
娼婦たちから見た戦場  イラク、ネパール、タイ、中国、韓国

娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国