ホンのつまみぐい

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ストイックで思索的な往復書簡「誰にもわからない短歌入門」鈴木ちはね/三上春海

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こういったストイックで思索的な試みこそが、美しいと呼ばれるべきなのだろう。

鈴木ちはねと三上春海がひとつの短歌について、往復書簡の形式を取りながら丁寧に言葉を積み上げていく様を、私の貧しい語彙で表現するのは無粋なので、いくつか引用を。

あと五十年は生きてくぼくのため赤で横断歩道を渡る
永井祐

(前略)時代をまっすぐ受け止めてその中の「生」を表現する、という点において、永井のこの歌と近代短歌は共通する。でも、受け止めている「時代」そのものは異なっている。ぼくはあと五十年も生きられるのだろうか。このひとはそう信じているみたいだけど、わざわざ言葉にするということは、逆の可能性もまた当然意識している。(後略)

(三上)

 

尽くすほど追いつめているだけなのか言葉はきみすずらん

土岐友宏

(前略)また、この歌の語順はなんとも不自然で、補助線を書き足すならば、(私が)「きみ」(に)「尽くすほど」、(私の)「言葉はきみを」「追い詰めているだけなのか」という具合になるのではないかと思う。〈私〉が省略されうるのはそれが短歌だからそうなのだが、この語順になるのはきっと、「尽くすほど追いつめているだけなのか」というフレー是鵜を喚起する間隔が、論理よりも先に来たからではないか。この文体は、先に現前した間隔は先に、その後を追う思考は後に、ある意味とても素直にそのまま配列したものではないかという気がする。(後略)

(鈴木)

本作はふたりの往復書簡という形を取っているため、一方の積み上げた論がもう一方によって否定されることがある。そのとてもわかりやすい例が、下に挙げる句をめぐる解釈だろう。

雪の上に雪がまた降る 東北といふ一枚の大きな葉書
工藤玲音

(前略)また、この作者は「東北」を一枚の「葉書」に喩えるが、「東北」と称される時間や空間は、果たして一枚の「葉書」に喩えられるような均質なものなのだろうか。「わかる」ということはそれだけ多くのことを捨象しているということでもある。(後略)

(鈴木)

 

(前略)雪が降る。晴れ間はなく、土地が雪に覆われていく。道が閉ざされる。家屋は潰れる。それでも雪が降る。また雪が降る、この絶望のようなもの。「東北」にとって『雪の上雪がまた降る』ことは美しいことでは全くない。それは世界から自分たちが「閉ざされる」ことを意味している。北国の寡黙な人の姿が仮構されるから、メッセージは大々的に書かれず、かすかな喘ぎが『また』の二字にのみ込められる。(中略)雪の上に雪が降り続け、自分たちが外部から閉ざされ続けた「東北」の記憶の地層がある。『また』の二字がその記憶を再現する。そして結句において突如、そのような窮状を外部へと伝え届ける希望の通路として、歌は「葉書」へと変化する。だからこそ、この歌は美しいのではないか。(後略)

(三上)

 

読みは人の数だけあり、そこにこそ読解する楽しみが潜んでいる。

感想をシェアすることが当たり前になった昨今において、読むという行為が個人的なことであると示した本書は、読解が孤独で、その分だけ自由なものだということを証明してくれる。

要約することと感情的になることばかりにかまけていた自分の文章を恥ずかしく思うような内容だった。

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kifusha.hatenablog.com