行けなかった方々のために当日のメモを起こしてたら、半分くらい書いたところで公的かつ詳細なレポートあがってるじゃないですか。やだー。
【報告】「イケメン×2.5―境界、まなざし、在/不在」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy
とはいえ、この日の謎のグルーブ感と私の感じた諸々はこの誠実なレポートにも表されていないので、自分用メモとして書き残しておこうと思います。
この日の登壇者はそれぞれ違った題材について語っていたのですが、個人的に心にひっかかったのは、「あわい」「間」「ズレ」と言った言葉です。
以下、レポートをそのまま引用します。
リアリテイを減ずるようにも思われる「ズレ」や「不自然さ」といった要素が、かえってそこで描かれている/演じられているものの「向こう側」の物語世界を生々しく感じさせる効果を持つことを指摘した。
岩川氏は、キャラクターの生が、3次元にいる「わたし」の背中を押してくれるように感じる瞬間にこそ、2.5次元は 生まれるのではないかと述べる。そして、われわれもまた別次元にいる彼らに向けて、祈るようにしながら、その背中を押すことができるのではないか、とも語った。
岩下発表については、「切断」や「ズレ・差異」がかえって物語世界を生々しく感じさせるという論点に関し、2.5次元舞台における「ここにないもの」を観客に見せるという誘いの重要性が語られた。「テニミュ」においてはボール、「ペダステ」においては自転車の存在を観客が想像力で補うことが求められるが、そのような誘いに乗ることで観客も2.5次元の世界に没入していく。
また、ここでは記録されていませんでしたが、岩下さんはこのほかに、舞台「弱虫ペダル」の演出担当・西田シャトナーの「2.5次元は2次元を単になぞるのではなく、そこにある『物語』を再現しようとしている」という言葉を紹介していました。
この辺りの話はだいぶ思い当たることがあり、「どうして未熟な演者の作るものに私たちは足しげく通うのか」という問いへの答えのひとつになるように思いました。
よく「テニミュ」の魅力のひとつとして語られる「キャストの成長や変化が楽しい」というのは、見方を変えれば「未熟なものを見せられている」とも取れるわけです。でも、実際は需要側の能動的な「見ようとする力」と、作り手側の「見せようとする力」が重なりあった瞬間、お互いの予想や期待を大きく超えた場所に到達することがあって、それこそが感動を呼ぶのではないかと。
私が行ってる規模のアイドルなんかまさにこれで、 歌やダンスだったらそのための教育をきちんと受けて舞台に立ってる人の提供するものの方が完成度が高いに決まってる。
でも、言語化しがたい「超えていく瞬間」があって、だからこそついつい観に行ってしまう。これは多分、アイドルが基本的には与えられた歌を歌う存在であることとも関わりがあると思います。本人たちの器以上の、あるいは本人たちとはズレた歌を歌わせるからこそ、コントロールできない「超えていく瞬間」が生じる。
そういう瞬間はウェルメイドを志向する作品ではなかなか体験できない、強く心を揺さぶる何かがあるんですよね。
私はアイドルで実感するけど、2.5次元にも同じような感動があるのだと知れて面白かったです。
あとは、岩川ありささんの朗読と発言のパワーはすごかった。発表冒頭は村田沙耶香の「消滅世界」の朗読。本作は2次元に心を支えられて生きている女性を主人公としたSFらしいですが、2次元のオタクなら思い当たるはずの切実さが冒頭で蕩々と語られて、いきなり場の空気が発表というより告白を待ち受けるような雰囲気に変化しました。
岩川さんの発表は「刀剣乱舞のクリエイター・芝村裕がファンダムを「大東亜共栄圏」と表現したことを、ファンはどう受け止めるべきか」という話でした。
ゲーム『刀剣乱舞』クリエイター芝村裕吏氏の「大東亜共栄圏」発言とその反応 - Togetterまとめ
発表の詳細はレポートを読んでいただきたいのですが、個人的に印象に残ったのが岩川さんが登場人物の刀剣男士を「いるもの」として語っていたことでした。
その上で、岩川氏はヴォルター・ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」(1940)におけるパウル・クレーの絵画「新しい天使」に寄せた一節を引き、刀剣男士たちを、取り返しのつかない過去の廃墟をただ見つめるほかない「歴史の天使」と位置付ける。彼らに応答するためにわれわれができるのは「原作」や「公式」の意図を「逆なでにして」読み、「歴史の天使」としての「かれら」に向けて、二度と惨劇が行われないための「いま」をつくると誓うことである。世界中に広がる「刀剣乱舞」のファンダムは、「大東亜共栄圏」でなく、「いま」を変容させようとする人々の共同体であると述べ、岩川氏は発表を締めくくる。
私は「マンガやアニメのキャラは作者の描きたいものを表す道具である」という前提でフィクションに接しているので、彼らを生きたものとしてこちらに取り返すという発想がまず新鮮でした。
また、岩川さんは博物館の刀の前で、「切っ先が自分の方に行くように立つと、何か見えてくる。もちろん普通の人には見えないけれど、その存在を信じている共同体の中では見える」という話もされていて、それは私がかつての少年ハリウッドプロジェクトで感じたものに近いのでしょう。
私には少年ハリウッドのキャラクターはアニメのキャラクターでしかないけど、それを「いると信じようとするファンの祈り」や、2次元と3次元の領域が曖昧になる瞬間の倒錯は本当にヤバかった。そして楽しかった。2次元を3次元に降臨させるって、ただのアトラクションの再現じゃないんですよね。
ほかに総体として感じたのは、女性の消費の多様性がどんどん拡大していっているということでしょうか。特に、石田美紀さんの「イケメンとイケボ」でそれを感じました。声優文化には明るくないので、イケボの消費の多様化についての話は初めて聞くことばかりでした。
石田氏はさらに、イケボがアニメの周辺領域で様々に氾濫している状況を紹介する。一例として、料理指南やエクササイズ、安眠導入など、具体的な状況設定のもとでイケボが聴取者に語りかけてくる「シチュエーションCD」が挙げられる。ここではイケボは物語の枠を超え、聴取者の日常生活の中の親密な空間において現れている。
このように、アニメと共生しつつアニメの外部で展開し、聴取者とのコミュニケーションを前提として成立しているイケボのあり方は、一種の2.5次元的現象と呼べるのではないか。石田氏はそう問いかけ、発表を締めくくった。
何重にも積み重なったレイヤーをあちこち行き来して楽しむというのが、消費のスタンダードになっているんでしょうね。
追記:上で「マンガやアニメのキャラは作者の描きたいものを表す道具である」という前提でフィクションに接しているので、彼らを生きたものとしてこちらに取り返すという発想がまず新鮮でした。”って書いたけど、星飛雄馬のことはなんか生きてると思ってたのかもしれません……。
伊藤剛のキャラ/キャラクター論で言うと、「巨人の星」は「星飛雄馬だけがキャラクターで後はキャラ」っていう特異な作品なんだけど、だからこそ一徹の理不尽や、現実に存在する野球選手の登場、残酷な現実認識も含めて、領域をあちこち行き来する不安定さがあって、それが妙に実在感を感じさせるんですよね。
だから、最終回の取り返しのつかない感じが悲しすぎて、それ以降は岩川ありささんのような「われわれもまた別次元(2次元)にいる彼らに向けて、祈るようにしながら、その背中を押すことができるのではないか」という見方が全然出来なくなってしまった。私がどれだけ考えても星飛雄馬は幸せになれないから。2次元に対して以前ほど熱心じゃなくなったのは、個人的に星飛雄馬ショックもあるのかなあなんて思っています……。
イケメン×2.5 ―境界、まなざし、在/不在
2015年11月8日(日)14:00-17:00
司会:筒井晴香(東京大学UTCP特任研究員)
I. 報告
岩下朋世(相模女子大学)
「+0.5の世界と身体―マンガから見た2.5次元」
岩川ありさ(東京大学)
「サブカルチャーと歴史認識―「刀剣乱舞」をめぐるポリティクス」
石田美紀(新潟大学)
「イケメンとイケボ」
II. コメント
上田麻由子(上智大学)
III. トークセッション
岩下、岩川、石田、上田、筒井
明石陽介(青土社)