ホンのつまみぐい

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物語に対する覚書

●あまりにもいろいろなことが起きて過ぎていくから、その「こと」に意味を持たせたり、理解したりしたくて、人は「物語を作る」のだということを最近は考えています。

物語として固形化することで、人に説明できるようになるし、あとで思い出してその瞬間を確かめたりできるようになる。

でも、物語にすることで奪われる細部もあるし、人によって全然別々のバラバラのものを見ていることが明らかになることだってある。

だから、岡崎京子桜沢エリカは最初に「物語でないもの」を描こうとしたのだろうか?

ちょうど「岡崎京子の研究」を読んだばかりということもあって、そんなことを断片的に考えていました。

岡崎京子の研究

岡崎京子の研究

でんぱ組.incのプロデューサーである福嶋麻衣子(もふくちゃん)は、「物語の先に行きたい」と話していました。

もふく:でんぱ組.incについて考える際、自分の趣味や好みを入れつつも、かなり世間の動向を見て決めているんです。だから、世の中が物語を求めているのなら、物語を作らないといけないと思う。でも理想を言えば、物語性を乗り越えた先にある領域に辿りつきたい、本当の意味でエンターテインメント性の高いものや楽曲の力で勝負したい、という希望はありますね。

「物語性の先に辿りつきたい」でんぱ組.incのプロデューサー・もふくちゃんが語るアイドル論

もふくちゃんがいう「物語の先」にはいろんな意味があるのだろうけど、実感としてとてもよくわかります。

あえて聞き飽きた言葉を使うけど、物語や関係性によって作り上げた「絆」って、ヒビが入った時にとてももろい。
お互いが作ってる物語がちょっとずつ違うってことを気がつくと、そのズレを埋められない。

そして、アイドルのプロモーションとして考えるなら、「わかりやすい物語」は簡単に拡散していくけれど、「わかりにくい物語」は広がりづらい。

ライブアイドルのファンは執拗に「現場」にこだわるけど、それは上に書いた「物語の限界」みたいなものを実感しているからではないかなんて思う時があります。

特に、地下寄りになると「物語」を作るために必要な「情報」の量がファンによって大きく違ったりするので、なおさら誰もが並行して共有できる真実が「ライブの瞬間」だけになるのだろうなと。現場に足を運んだ回数や、運営との距離感で情報の量が変わってしまうと、それに引っ張られるようになる。いわゆる大手になると情報が整理され、均質化されていくので、オタクにとってはある意味で安全かもしれない。(つまらない話だけど、物語の観点を変える情報の最たるものが「アイドルと誰々が繋がってる」だろうなと思う)

「物語」は大切だけど、それに頼るとどんどん内輪ウケになっていく面もあるし、遠くまで表現を届けたい時に「物語」に頼ってはいけないんでしょうね。