ホンのつまみぐい

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おおかみこどもの雨と雪

 おおかみこどもは「花は毒親か否か」「リアリティのあるなし」などについて、事前にかなり議論が紛糾していた印象があり、それに対する批判も弁護も出そろっている印象を受けた。だからこそ、他人の意見に惑わされずに作品の本質に向き合おうと努めるつもりで観た。そして、その結果として得た結論が「細田守は嫌いなままでいいな」だった。残念……。

 おおかみこどもの雨と雪は、狼男と恋に落ちた女子大生・花が半人半獣の子供を二人産み落とし、夫である狼男の死を契機に、都会から出て、田舎で子育てを始める話だ。

作中、私が「あ、これ嫌いになってもいいや」と思ったのは、半獣の雪が学校に通うことになり、その奔放さ故に同級生に避けられるくだりだ。

 半獣として野山を駆け回っていた女の子・雪は、宝物として蛇のぬけがらや動物の骨を収集する、いわゆる「虫めづる姫君」だ。それゆえに同級生の女の子に避けられてしまうという描写がなされる。それを受けて花がワンピースを作り、「手作りのかわいいワンピース」という女の子記号を身にまとった雪は同級生に受け入れられる。

 この描写から伝わる細田守の子供観の貧しさに思わず「はぁ?」と声が出てしまった。

 女の子らしくない趣味を持つ女の子は、そんなにわかりやすく共同体からはずされるのか?

 仮に仲間外れになったとして、それなら気の合う男の子と遊べばいいのでは?

 そして、それを解決する手段がかわいい服を着てくることなのか?

 もし細田守が本気で女の子同士の友情を「その程度のつながり」と考えているのなら失礼な話だし、仮にもし本当にその程度のものだったとするのなら、そこに固執して自分を押し殺す理由はあるのか?

 このもやもやは結局解消されないまま、物語は同級生の男の子による肯定を、抑圧された雪のための救いとして用意する。古くさい!

 ここで私はこの作品にだいぶ肯定的な関心を失ってしまったのだけど、もうひとつひっかかった点があって、それが都会の描写と田舎の描写の、背景美術の厚みの違いだ。

 おおかみこどもでは都会は半獣の子供を育てるのにあまりよくない場所として描かれる。

 たしかにまあ、半分獣の活発な子供を育てるのに豊かな裏山がほしかったというのはわからないでもない。シングルマザーが周囲の関心から逃れたくなって知人のいない場所へ行くというのも、選択肢としてありかもしれない。ただし、本作は都会の人々を無理解な存在として描くことで、田舎への移住に説得力を持たせようとしている。にも関わらず、実際に観ていて目に付くのは都会の街の描写の豊かさなのだ。

 薄暗い夜のマンションの明かりの頼りない明るさや、よくある商店街の素っ気ない風情。そして、雨の日の郊外の街の寂しさも含め、行間を呼び覚ますリアリティがある。そして、その行間から、暖かくおせっかいな人も、冷たく子供を突き放す人も同様にリアルに想像できてしまうため、都会を貧しい土地としてしまう映画の描写にズレを感じてしまう。

 一方で、理想郷として描かれる田舎の自然にひとつ嘘を感じてしまった。何度もTVCMで何度も流れた、雪で埋もれた丘を、雨と雪が狼に変身して駆けていき、それを花が追いかける場面。

 この場面の雪の重さと軽さになぜかリアリティがない。雪に足をつっこんだ瞬間の重さと、雪を宙に舞いあげた時の軽さ。どちらも表現できていないように見えた。アニメの嘘として描いた風景だとしても、どこか中途半端だ。リアルに足下を固めるでもなく、メタモルフォーゼのために大ボラを吹くのでもなく、ただ演出の甘い雪に見えてしまった。

 高畑勲が「おもひでぽろぽろ」で描いた山形や、片渕須直が「マイマイ新子と千年の魔法」で描いた防府の豊かさと、やっぱりどこかが違う。

 ここで、やはりこの監督は都会を描く方が向いているのだと感じた。都会は書き割りを超えた風景なのに、自然が書き割りに見えてしまうのなら。

 ただ、このあたりは都会で生活し、たまに祖父母へのあいさつのために田舎に行くという私自身の都会と田舎への思い入れの距離があるのかもしれないが。