ホンのつまみぐい

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2020年は病気について書かれたものをよく読んでいた

 年明けの最初の記憶はキツめの捻挫だった。

 階段は右足をかばいながらそろそろと降り、傘を杖代わりにしながら歩いた。もうすっかりよくなったが、一時的なものでこんなにつらいのだから、足の悪い人には親切にしなければとつくづく思った。電車の席はすぐ譲るし、荷物が重そうだったら手を貸すぞ。

 なんの偶然か、疫病による災禍の真っ只中に突き落とされた年のはじめに、身体が不自由になるということの恐ろしさを実感していたことになる。

 2020年はずっと病気にまつわる表現を目に入れていた。

 未来に対する不安や恐怖もあるし、年齢的なものもある。父がガンで早くに亡くなったので、病気に対する不安は強いほうだ。ガンのような、進行性の病気でなくなった人の闘病記を読むと、かつて感じた寂しさや恐ろしさがよみがえってきて、傷が膿んだような気持ちにも、懐かしいような気持ちにもなる。

 病気にまつわる本を読んだり、映画を観たりはしたわけではなかった。じっくり向き合う気力はなかったのだと思う。ただ、ネット上で公開されているマンガや文章の中に、闘病生活を描いたものがあるとすぐに読んでしまった。

 今から、今年読んだものについて書く。

www.pixiv.net

 

うにさんと私(1-23)www.pixiv.net

 線維筋痛症という難病にかかり、うつ病を併発。現在障害年金の受給と在宅ワークで生活している著者のハムスターとの日々が描かれている。独特でユーモラスな絵柄を通して、病人やマイノリティーを取り巻く社会の残酷さが描かれている。著者はツイッターで老齢のうにさんの介護の様子をツイートしていて、それがとても大変そうだ。社会のクソさに反し、どこまでもうにさんの生に誠実であろうとする著者の姿が気高い。

 

twitter.com

 

comic-polaris.jp

 鳥獣戯画のうさぎを自画像にあてた闘病記。入院するまでの道のりの長さが細かく描かれていて、軽い語り口を取っているけれど緊張感がある。「虐待サバイバーなので連帯保証人を親に頼めない」という話は考えもしなかった苦労。

 

UC(潰瘍性大腸炎)漫画アルコラ 1www.pixiv.net

 潰瘍性大腸炎の闘病記。退院後、「辛い時にも読めて不安が減るような手軽な読み物が」と思い描いたものだとか。病気の特質上、食事の話が多い。食べられるものが増えていく過程を読みながら「よかったねえ」と思っていた。

 

vcomi.jp

 史群アル仙名義時に描いていた『史群アル仙のメンタルチップス』は、症状悪化の原因になっていたのではないかと心配していたので、今よき伴侶を見つけて過去を振り返っている著者の姿に感動する。ワビ仙さんは複雑性PTSD。パートナーのネギオさんは統合失調症

 

 

yawaspi.com

 アシスタント先で受けた性暴力で心に深い傷を負った著者が、幼少期まで振り返りながら自らの性に対する感情とそれを取り巻く社会について描く連載。女性の体でいることで降りかかる残酷な出来事を著者が丁寧に読み解き、「こうした出来事を生み出してしまう社会とは一体何なのか」を解説している。

 個人の体験であるトラウマと、それを生み出した社会を絡み合うように語り、双方を読者にすっと理解させる。非常に緻密な構成で、おそらく相当の時間をかけて作られたものではないかと思う。戯画的ですっきりした絵とコマ割りも飲み込みやすさに大きく貢献している。2020年に読んだノンフィクションの中でもっとも重要かつ知性的な作品だと感じた。

 「誇りとかそういう大事なものを失わずに、生きていける?」という第10話の言葉は、どこに着地するのだろうか。

 

kunel-salon.com

 こちらはフィクション。膠原病で仕事を辞め、週4のバイトをしながら生活する主人公が、料理を楽しみながら生活を整えようとする団地の人々に出会い、身体や周囲との関わり方を変えていく話。かなり切実な状態の主人公が、少しずつ自分の体に優しくする方法を覚えていく姿にほっとする。

 薬膳うんちくマンガと呼ぶこともできるが、そうしたフォーマットの作品がともすれば陥りがちな自己啓発的な要素が少しもなく、安心して読める。

 自殺したくなった時でも読めそうな、細やかな優しさが作品全体に漂っている。

 

note.com

 統合失調症の娘さんのことを書いた日記。書き手の高島さんにはもうずいぶん昔にお会いしたことがあり、淡々と取り組むことができる嘘のない人だという印象を持っていた。

 その高島さんの印象そのままに、統合失調症の娘さんとの生活がつまびらかに、大量に書かれている。統合失調症がこれほど厳しい病気だとはまったく知らなかった。なにかよい薬ができることを願わずにはいられない。

 

note.com

 知人のfacebookの投稿から偶然見つけた脳卒中のリハビリ記。facebookでも日々の思いを投稿されていて、直接の知人でもないのに読んでしまうのは失礼かと思いつつも、ずっと読んでしまう。

 犬を飼っていた頃によく散歩でお会いしていた方に、脳卒中の後遺症でうまく話せない男性がいた。なんとなく曖昧な顔をしてお返事していたのだが、こういう文章を読むと、私の曖昧な態度を先方がどう感じていたかを考えてしまう。

 

altslum.com

 健康に関する幅広い話題が展開されていて、何度も頷きながら読んだ。「未来を想像できる状態じゃないと身体のメンテナンスのような長期戦略的なことはできない」というのは本当によくわかる。

 しかし、「結局、俺に配られたカードは腕力じゃなくて知力なんだ……っていう気づきが中学生くらいの頃にあって。」という言葉は「腕力がある人には知力がない」と言っているようで、自分の実感とずいぶんズレがあった。

 スポーツトレーナーなどは繊細で観察力がないと務まらない。それは明らかに知力と呼ばれるものだからだ。そして、文化系の人間でも知力のない人はいるからである。

 

 闘病記を読むたび、私は病身の父の寂しさに寄り添えてなかったと思う。そして、自身が病気になった時、相談できる人を増やさなくてはいけないとつくづく思う。

 また、難病と言われるものの中にはストレスに起因するものが多く、社会がもっと安心して暮らせる場であれば病気にならずに済んだ人もいるだろうと、とても強く思う。

 病気に関するマンガを読むと、マンガという媒体の力を感じる。うさぎや猫、三頭身や四等身の身体で描かれた「かわいい身体」だからこそ伝えられる経験がある。

 闘病記を読むことによって何かが変わるわけではないのだが、それなのになぜ読んでしまうのだろうか。これは性急に答えを出すようなことではないと思うので、じっくり考えていきたい。

 そこに、「自分よりつらい人を見て安心したい」というクソな感情があるだろうことも含め。(そして、「そんなふうに感じてしまうことのしっぺ返しとして自分もいつかつらい目に合うのではないか」というクソな心配もしている)