ホンのつまみぐい

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自由な中年女をめざした少女はどのように生きるのか―映画「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」

 ローリーを愛しているけど、「これは延長線上に結婚がある感情じゃない」と理解し、プロポーズを拒否してしまうジョーが、ベスの死に直面して「女には知性も情熱もある、結婚だけが女の幸せじゃない。でも、たまらなく寂しいの」と言いながら泣くのがわかりすぎて、自分も泣いてしまった。

 もちろん環境はいろいろ違うけれど、ふとした時に襲う「寂しい」が、大きな喪失の際に、津波のように襲ってくる。この種の寂しさは処世やボディメイク、料理がうまくなったところで抱えきれない。

 最近よく「自分の機嫌を自分で取れる人が大人」と言うけれど、そういう言葉に触れた時の居場所のなさと近いものを感じ取った。

 自分の機嫌が自分でとれる……。

 そんなこと「もう少しお金があれば」「障害がなければ」「親が自分のことを殴るような人でなければ」「家族の世話の必要がなければ」「愛されるのが得意であれば」「そもそも異性愛者でなければ」という問いを抱えた人に言えるのだろうか、とか。

 上の問いのすべてが私のものではないけれど、社会とうまくやっていけないことの苦しみを、「あなたの要領が悪いから」というニュアンスをはらむ言葉で丸められてしまっては、悲しみの行き場がない。

 人生の選択肢の数は、いかに社会とうまくやっていけるかでだいぶ変わってきて、どこかでつまづくと歩ける道が一本だけになっていたりする。

 この映画ではジョーはアセクシャルのように描写されている。だから、彼女は姉弟のように遊び、血縁より深く心を寄せたローリーに求婚された時、それを拒否した。愛しているけれど、それは男女間の愛情ではない。彼女はここで親友を失い、選択肢をひとつ失い、より孤独になる。

 ジョーの孤独や苦痛は「結婚できない不幸な女」として見られることだけではない。彼女のような立場に立った人がほかにいないというのは、「本当に悲しい時や苦しい時に、それを誰かとわけあうことができない」ということだ。

 姉のメグの結婚を聞いたジョーは、「少女時代が終わっちゃう」とつぶやくが、これは単に「ずっと少女でいたい」という願いではない。「家族」という最小単位の「社会」が解体された先、これから生きていく「社会」には、自分の居場所がないという自覚に基づいたものだろう。

 ジョーのことを異性として、そして社会の中でのパートナーとして見ていたローリー。しかし、ジョーはローリーを拒否せざるを得ず、別の方法で社会の中の自分を探していかなくてはいけない。

 そう、私たちは結局のところ、本当に残念なことだけど、それでも生きていかなくてはいけないのだ。

 映画のジョーは作家として独り立ちすることで経済的自立と精神的自立を確保しようと努め、故郷に学校を作っていた。

 選択肢の少なさに苦しめられたジョーが、学校を作って自分自身だけでなく、他者の選択肢を広げていく姿は美しい。

 しかし、社会の通念に乗れなかった人々は、社会に対する何らかの奉仕者になることでしか、自分と社会との折り合いをつけることはできないのだろうかとも思う。

 「自由な中年女になりたい」というジョーの叫びの向こうに、「経済的自立を得たい」とか、「固定観念と戦いたい」という可視化された悲願だけでなく、「自由に生きながら社会で生きるということの内実は何か」という問いを見ていた。

 また、この映画では「若草物語」はメタフィクションとして描かれており、ジョーが自分たちの物語を小説にして出版社に売り込む場面が登場する。ジョーは最後に「若草物語」を売り込むが、編集者の要求で「次女が突然現れた知性的で理解のある男性と結婚する」場面を付け加えさせられる。

 実際、オルコットは本当はジョーを結婚させたくなかったが、編集者に要求され、やむなく彼女を結婚させたらしい。監督は、「映画ではオルコットの望む通りにしたい」と考え、メタ構造を活かして「どこか嘘っぽいジョーの結婚の場面」と、「本の出版に胸を膨らませるジョーの場面」を並べることで、オルコットの念願を果たしている。

 

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  技術的なことは物申せないけれど、画がずっととても魅力的だった。役者さんたちの野趣のある表情やしぐさも好きだし、ディティールにも胸を打たれるところがたくさんある作品だった。原作を読んでいなかったので、最初は衣装から「裕福な家庭なのかな?」と思っていた。あまりに素敵な服装ばかりなので。自分では気が付かなかったけど、ローリーとジョーが服を取り換えているというのがとても愛おしかった。

 

若草物語

若草物語