バブルに唾を吐きかける悪意の結晶。そして根本敬版「巨人の星」。それが「天然」だ。
舞台は1950年代の東北の架空の村。主人公の村田藤吉は、ムラ社会の中で小作人の息子としていじめぬかれる。天才的な野球の才能を持つが、それを発揮することができない悲劇の男だ。
生まれた瞬間から序列の決まった村の中、どもりで自分の意志をうまく伝えられない藤吉は犬以下の存在として蹂躙され続ける。村長の息子は藤吉を「ブタのウンチョ」と呼び、首に縄をかけて竹で叩くなどのわかりやすい暴力をふるう。藤吉の存在は村長一家に私物化されていて、死んだ下男の代わりに村長一家の豚の世話や便所汲みをやらされたりもする。
本作の白眉は、体調を崩して働けなくなった藤吉の父を、村長が選挙のために利用するところだろう。選挙演説で「おめえんちの敷居はこの吉田があずかった」「おらにまかしとき」と胸を張る村長。
普段はゴミのように扱っている家族を利用し、「かわいそうな村田家の人々を生活保護から救い出す頼れる男」を演出するその姿を見ていると、「絶対にこのような俗物に勝てない」いう恐怖心が湧いてくる。
村全体から虐待を受けながらも、藤吉は何度か野球の才を外部の人間に認められるが、そのたびに村に引き戻される。最後は修行に来ていた川上哲治にスカウトされるが、村長に老婆の世話を押し付けられ、結局村から出られないまま50歳になる。老婆の死によって藤吉はやっと村長の家庭から解放され、とっくに引退した川上との約束を守るために東京行の電車に乗るのだった。
陰茎も肛門も排泄物もそのまま描く根本の絵は、果てしなく汚い一方、強い郷愁や生命力を感じさせる呪術的な力があって目が離せない。なにより、「たしかに世界とはこのような身もふたもなくひどいものだ」と思い起こさせる説得力がある。特殊な絵なのに、スラスラ読ませる技術力の高さにもほれぼれする。
「天然」は、1988年の6月に1巻、9月に2巻が刊行されている。バブル期のまっただ中であり、翌年に平成を迎える年だ。
20数年後の今に改めて読むと、藤吉が会社勤めをし、二児の子供をもうけることができた当時は、確実に豊かな時代だったと言える。
「老婆の介護のために若者が前途を閉ざされる」というエピソードは、今では普遍的な社会課題だし、村の住民の命すら私物化する村長のふるまいも、コロナ渦中の政権や一部自治体の首長を見ていると、まるで他人事に思えない。根本がおそらく、「過去の残滓、あるいは隠された真実」として描いたであろう露悪的で醜い世界は、かつてよりはるかに多くの人の前に現実として広がっている。
数ある残酷なエピソードの中で、私が選挙のシーンを格別に強烈に感じたのも、こうした権力の私物化が、日常の中であまりにもあからさまに可視化されているからだろう。
もともと私は、根本の「下層を哂う」作風に憎しみを抱いている。彼は「自分より愚かなものたち」を指さし、哂うことで露悪的な「真実」を表出させた。 不条理で残酷な社会を生きる中で、「現実なんてこんなもの」と突き付ける根本の開き直りに、心を支えられた読者も多いだろう。
また、多くの読者は「野蛮なムラ社会の人間たちの生命力」に憧れていたはずだ。そうでなければ数百匹の捨て犬を抱える保護施設で、犬のエサ箱をわざわざ洗剤で洗う男が逆ギレ気味に吐き捨てた「そうだよ、無駄な事なんだよ でもやるんだよ!」が流行るはずがない。しかし、その憧れは彼らの野蛮さが自分の生活を侵食してこないという安心感あってのものではないか。今「因果鉄道の夜」を読むと、そのあからさまな見下しの視線が目も当てられない。
根本やその読者が下層を哂うことができたのは、間違いなく、彼らがさまざまな豊かさに支えられていたからだ。それがはがれてしまった今、かつてとは違った意味で彼の作品は「誰でも楽しめるもの」ではなくなっている。
近年、根本作品の差別的な目線に対する批判が寄せられるようになっているが、それは多くの人にとって根本の世界が身近に感じられるようになったこととも無関係ではないと思う。
とはいえ、社会の変化にかかわらず「天然」は名作だ。エッセイと違って露悪的な笑いに堕ちないため、普遍性がある。フィクションだからこそと思う。
その普遍性とは「弱い者いじめによってまとまり、村を出ようとする人をとことん引き留める、まるで呪いのようなムラ社会の姿」だ。
「天然」の単行本には上野昂志の解説が掲載されている。昭和の終わりを思いながら書かれたであろうその文章には、こんな一節がある。
「ですが、だからといって、ムラが消滅したわけではありません。みんなが都市論だの江戸論だのとやっているそのかたわらで、ムラは形を変えて成長してきたのです。まるで日本そのものが、地球上の一個のムラであるかのように」
「天然」で示されたムラ社会・日本はいまだまったく古びていない。
ところで、山ごもりをしている川上が犬を殴り殺して食べている描写は本作の中でも一際暴力的な場面だが、これは根本が、野球選手を「野蛮な弱肉強食社会の中で頂点に近い位置にいる存在」としているからなのだろうか……。
上に書いたようなことがもっと知的に語られているまとめ。
それはともかくとして、こうした作品を掲載していた「ガロ」という雑誌は、やっぱりすばらしい場だったと言うほかない。