オザケンは「上の世代にとってのカリスマ」で「個人的な思い入れはないけどすごい人」枠だったから、どんなことをつぶやくのかという関心はゼロではなかった。しかし、そのツイートの内容はネットにありがちな諧謔だった。
中学生諸君、社会の試験で「日本の主食はお米、アメリカの主食は?」とあったら、答えは「パンは副食(side)で、チキンやパスタ等、その日のメイン料理が主食。パンは補助的な存在で、設問はむしろ日本の食事観と集団的思いこみを表してますね、先生」と書くのをこらえて「パン」と書こう。
— Ozawa Kenji 小沢健二 (@iamOzawaKenji) April 7, 2019
20年前なら諧謔や皮肉にお金を払う人がいたし、ちょっとした雑学もそれなりに貴重だったろう。でも、誰もがだれかをバカにできる時代だし、雑学が溢れすぎて体系的な知が脅かされている時代には、あまりにも凡庸な「ネタツイ」だった。
私はこんなことをツイートしては評価が下がるだろうと思った。しかし、ありがたがる人の方が多かった。
中には、「自分がオザケンの高次の問いかけについていけてないのではないか」と葛藤する人や、オザケンのツイートを腐す人を「彼は真実を言い当てているから迫害されるのだ」という人もいた。
彼ら彼女らにとって、オザケンは神なのだと思う。
私はその考え方に同調出来ないが、神がいることにより、より安定した気持ちで生きていける人はいるのだろうと思い、それを「信者」として笑い飛ばす気にもなれなかった。
プロテスタントにカソリックより自殺者が多いというのはわかる気がする。決めるのも、考えるのも辛いことだからだ。
それでも、生きた人間を神にするのは危ういように思える。
人は人である限り間違えるが、多くの人は自分自身の神の間違いを正せるほど強くないだろう。
私は生きた偶像を心に持たないように気をつけている。「裏切られた」と思ってしまうのが怖いからだと思う。
だから、うらやましいのか、生きた偶像を心に持っている人を見ると、たまにその人から偶像をひっぺがしたくなる。「つまらない犯罪で捕まらないかな」などと願ってしまうのだ。
そういうねたみにこそ、神の教えが必要なのかもしれないけれど、とりあえず今私には特定の神がいない。「推し」ではまかなえない感情も、生きているうちにはある。