ホンのつまみぐい

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インターネットの悪口は現実で

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 楽しみに読んでいたcakesの連載『「青い芝」の戦い』が終わった。

 「青い芝の会」は脳性マヒ者による運動団体で、連載は学生時代に実際に活動の手伝いをしていた荒井裕樹さんと九龍ジョーによる対談だった。

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 過激ともいわれる闘争を、なぜ当事者が展開したかをわかりやすく語りながら、自分はどう関わるべきかについても言葉にしていて、とてもよかった。

 最終回は「『怒り』の共有で、理不尽な現実は変えられる」というタイトルで、

荒井 相模原の事件が起きた直後は、「池田小事件」(2001年)のことも参照されて、精神障害の人たちに対する偏見や取り締まりが厳しくなるとみんな考えていた。だからぼくも、某誌の緊急特集号に「これは冷静に考えなければならない」と書いたんです。

でも、冷静に考えられてしまう自分ってなんなんだろう。だって、19人も殺されて、20人以上がけがをしている。取り乱して、怒っていい事件のはずなのに。社会全体もわりと冷静でしたよね。でもそれって「この社会には、殺されても特に気にならない特定の人たちがいる」ということになってしまう。そのおぞましさに気が付いて、冷静でいてしまった自分に愕然としました。

もちろん、身勝手な理屈でとんでもないことをした犯人への怒りはあります。でも、それだけじゃなくて、これだけの障害者が殺されたこと、尊厳が傷つけられたことに対しても、もっと怒らないと。

 

荒井 安保法制のデモがあったときに、よく知っているジャーナリストが「過激な運動じゃなにも変わらない。対案を提示した方がいい」といった主旨のコメントを出していて、それはちがうぞとおもったんです。怒りは怒りで示してもよいはずです。

九龍 そうです。それに怒りを表現するための方法だって、歴史的な蓄積がある。青い芝だってその一つですし、沖縄の阿波根昌鴻のような非暴力の闘い方に学んだっていい。個人の「怒り」という原点に寄り添わずして、一足飛びに社会工学的に問題を解決しようという発想は、けっきょくのところ既得権益のある人間の都合のいいようにしかならない。

  という言葉に「ほんとそう!」と思った。

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 ただ、一方で、日常ではSNSでも現実でも「怒り」が「しょうもない悪口合戦」に転嫁されている。「社会をよくしよう」とするための発言なのに、ただの揚げ足取り合戦になってしまうなら、結果的に「怒り」の方が薄まっちゃってない?

 こんなことを書くのも、私自身がここのところ毎日キレそうになってツイートを止めるの繰り返しだったからだ。

「ここで怒りを含んだ嫌味を書けば拡散されてちょっとすっきりするだろうけど、それ意味あんのかよ……」

 で、まあ、「たぶん、あんまない」と結論は出ている。

 しかし、ネットを見るたび嫌いなやつとかムカつく事柄に対するイライラは溜まるので健康に悪い。悪口言いたい。めっちゃ言いたい。しかし、言えない。これがここ数か月の現状だった。

 しかし、そんな状態に対する対抗策があった。

 それは、「リアルで悪口を言うこと」だ。

 争いを避けるために詳細は書かないけど、私が「〇〇(人名)のツイートがほんとにうざくて……」と一緒にご飯を食べてた友人に言うと、「私その人知らなかったんだけど、〇〇なんだね!〇〇なんて一番人としてダメな人種じゃん!関わっちゃだめだよー」とすかさず言ってくれて爆笑した。

 気心が知れるというのはこういうことだな……。

 友人は「インターネットの悪口をインターネットでやっちゃダメだよ!インターネットの悪口は現実でやらないと」と言った。

 ほんとそう。心がけたい。

 ちなみに、あとで「悪口言ってる〇〇さんってめちゃくちゃ笑顔で輝いてますよね!」って言われた。

 わかる。自分の顔は見えないけど、終わった後の明るくてキラキラした気持ち、忘れられない……。あと、私はわりとブレーキかけてしゃべってしまうけど、悪口ってアクセルちゃんと踏んでるから、言葉に強度みたいなのもあったし。

 まあ、しかしそれも私の悪意を受け止めて、笑いながら打ち返してくれる友人あってこそなので、「ともだちだいじに」というのを心の底から実感した。ほんと、日常大事大事。

 しかし、リアルで悪口を言う友達がいない人のためにも、インターネットにももっと多様性のある優しい場所であってほしいし、そうなるように考えたいよね。