ホンのつまみぐい

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ヌード展で思い出した「ストリップは芸術」という不思議な表現 @横浜美術館「ヌード NUDE ―英国テート・コレクションより」

評判通りの面白さでした。

 

かつてヨーロッパには「これは裸ではなくヌードである。ヌードにおいては、ポーズは挑発的でなく、背景は日常的でなく、モデルの顔は個性的であってはいけない」という口実があり、タブーである裸を描くために、神話の世界が利用されていたという背景があるのだとか。

 

ヌードという言い訳を前提として裸を描く時代から、人々の日常にある全裸を描く人々が現れる過程がわかりやすく可視化された前半から、人種や性別、立場による裸の扱いの違いを暴いていく後半というのがおおまかな流れ。絵画・写真・立体と、それぞれの表現の違いも面白かったです。

 

直接的なエロティシズムを感じる作品は少なかったけれど、六本木の蜘蛛「ママン(MAMAN)」の作者ルイーズ・ブルジョアによる絵画が、なぜか生々しい性を喚起させました。

 

個人的に印象に残ったのはフレデリック・レイトン 「プシュケの水浴」(1890年発表)です。いかにも全裸を描くために神話の形をとるしかなかった時代に描かれた画なのだけど、このプシュケが先日拝見したストリッパーの渚あおいさんにそっくりなのでした。

artexhibition.jp

髪形も、小ぶりな乳房も、ナルシシズムにあふれた微笑も、もう渚あおいが白人になったのかってくらい。今までの私だったら「こういう芸術っぽい全裸つまんないな」って思ったはずだけど、「あっ、こういう裸体この間見たわー」って思えたのは大変よかった。

初めてストリップを観た人はよく「ストリップは芸術」と言うんですが、それはこういう神話的な図像が人々の中で芸術とされていることと関わりがあるのではないかと思うと面白いですね。

ヌード絵画の有り様を芸術と思っているからこそ、バシッとポージングを決める踊り子さんのことを「芸術」と表現する。

ただ、「芸術」という言葉を用いることで裸体を特別視することは、裏返すと女性の身体をタブー視する目線が私たちの中に組み込まれていることの証明でもあるんじゃないかなというもやもや感も……。

もちろん、見ている方は美しい肢体を維持し、ポーズやダンスを繰り出す踊り子さんへの敬意を込めてその言葉を使っているのでしょうが。うーむ。

芸術新潮 2018年 04 月号

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