ホンのつまみぐい

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日本語RAPと定型詩をテーマにした同人誌「in&on」の感想など

 フリースタイルダンジョン関連で出会った人の中にはけっこう歌人俳人がいて、「おっ、そこでつながるのか」という新鮮さがありました。広義の言葉遊びとしてのMCバトルと定型詩

 そんな歌人俳人定型詩の人たち―が集まって作った同人誌が「in&on」。日本語ラップおよびMCバトルを題材にした短歌や俳句のほか、エッセイ、評論、ラッパー・KOPERUも加わった座談会が収録されています。

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 詩に関しては詳しくないのですが、好きな作品を少しつまみます。

 

01月 寝正月前髪ばかり伸びており
10月 ハロウィンや肌のきれいな吸血鬼
13月 十三月抱けば人体藁くさく

―サンプリング13月 松本てふこ より

花見客さらに増す音叩き込む
心音に花火はなやぐ喪服から

―虹の痕 西川火尖 より 

みずからの重みを支えきれなくてさらに大きな曲線を成す

ありがとうただまっすぐに続くみち異国の麺を嚙みつつ思う

―トルコのパスタ 嶋稟太郎

  全部引用するのも重たいので省いてしまいましたが、上に挙げた作品はそれぞれ、本来はもっと多くの句/歌とともに並べられ、ひとつの作品として掲載されています。単体で見ても面白いのですが、いくつかの詩と並べて鑑賞することにより、起承転結とは言わないまでも、時間の流れや感情の変化が見いだせるようになるのが印象的でした。単体だと風景だけれど、複数だと世界になるとでも例えればよいか。

 評論・エッセイで印象に残ったのは矢野利裕さんの「日本語ラップ情調論」。バトルを「協働的な営み」としてとらえ、フリースタイルラップを「その言葉にまつわる集団的な記憶」を前提とした歌謡とする切り口が面白かった。

 また、座談会「KOPERUとコトバを考える」は彼の作品作りの方法論や、 梅田サイファーというコミュニティの特徴が伝わってきて資料的価値が高い。KOPERUさんのファンなら必読でしょう。ほかで公開されたインタビューと被らない部分だけ少し引用します。

 コッペパンで、DJ松永さんの曲で二人で作った「すれ違い協奏曲」っていうのがあって。それは単純に、二人でずっと「あれはあかんなあ、あれはほんまにあかんなあ」って、やめたいけどやめれない二つのことに対して言っていくっていうか。最初は一つのことに対して言うんですけど、後からだんだん二人ともが別の話になっていく。結局、一人がギャンブルの話で、一人が風俗の話。で、違うんかい!っていうのをやりたいみたいな。

(略)

本当に僕、ラーメンズさんがめっちゃ好きで、ラーメンズさんのコントも全部見てて。で、それもR-指定に見せて、アンジャッシュさんのコントも見せて、これをラップでやったら相当すごいと思うから、それをやってみよう、確かにな、というので形にする、二人で歌詞を考えるみたいな。

だから、僕らがいうのは、日本で一番有名やけど、日本で一番人が少ない、人を寄せ付けないサイファー、っていうか。(略)全員人としての欠点があるっていうだけで繋がっている、みたいな。

(略)

梅田サイファーって、映画の話だったり、漫画の話だったり、最近自分が見たもの、体験したこと、聞いたことをみんなで発表し合うみたいな。R-指定がよく言うのは「生存確認」みたいな。

 

一同:なるほど!

 

確かにな、と「こういうこと最近あってん」と。ほんまにしゃべりに行くみたいな感じなんですよね。だから「俺はこうでこうやっていきたいんだ!」という人はまず残れない。

 マイクリレーと連句の共通点、MCバトルはプロレスであるべきという話なども面白かったですね。

 

 全体的に「定型詩コミュニティに向けて日本語ラップ(特にMCバトル)を紹介する」というトーン。面白かったけれど、評論やエッセイの切り口にはもう少し両者の化学反応を見出したかった。それにしても、歌人俳人はもれなくDOTAMAが好きですね。

 

 あとは、番外として韻踏み夫さんの乱闘にワクワクしました。炎上エンジョイメンタルなので……。

ラッパーのゆうまの「ラッパーが短歌と俳句について語る――「ふつうの人」の視点から」という文章である。ゆうまが説くところはいたって平凡で、取るにたらないほど陳腐なものだ。いわく、俳句や短歌に関わる人たちは門外漢の筆者に俳句や短歌について語らせてくれた。この雑誌に関わっていない歌人の方も許してくれるだろう、悪いことをしているのではないのだから。翻ってみれば日本語ラップシーンの人間は、詳しくない人がラップのことを語ることを拒む。なぜそうするのだ、ラップのことを語ってもらえるのはありがたいことではないか。

 

 おおよそこのようなことを言っている。いちいち批判するのもバカげている。詳しくなければ語っていけないなどということはない。ただ、無知は間違った言辞を誘いやすく、間違ったものにはその都度批判を加えるだけだ。知識の多寡は問題ではない。

サイゾー』2010年7月号にて行われた「日本語ラップという不良音楽 対談――磯部涼×佐々木中」で、佐々木は門外漢でもなければ内部の人間でもない「オン・ボーダー」であると自らを規定しながら、日本語ラップは独自の言語を持っているのだから、哲学や思想といった外部の言葉でそれを語るような「下品なこと」はしたくないと言っている。マイナーな者の声について他人が語るとき、そこには常に政治性が存在し、だからこそ語るに際しては慎重にならなければならない。当事者でない者ならばなおさらである。ゆうまの言う「ふつうの人」というのは、その政治性を回避したい者がねつ造した抽象的な虚構であるに過ぎない。反対に、磯部はインサイダーとしてどこまでも当事者に付き添うことで語る者なのだと言える。ここでは二種の立場が存在している。沈黙、絶句することと、接近の試みを続けることである。やってはならないことは、日本語ラップに今欠けてるもの、例えば商業的成功、高尚さといったものを与える代わりに、彼らから搾取をすることだ。

 

 ここで提出された問題は日本語ラップについて語る者に、当然私にも返ってくる。これまで私の書いた、そしてこれからも書くだろう文章は佐々木がいうところの「下品なこと」に当たっているのだ。それでよい。例えば、作者のことを一度括弧に入れて作品だけを語るのだから政治性とは無縁だ、などといった虚構をでっちあげる必要ない。そんな欺瞞をして何になるというのか。不誠実で、半端で、愚鈍でもあるのだから、私は間違いを犯しているのかもしれない。しかし、語る許可も、犯した間違いへの許しも必要ない。「発言権」は「俺から俺へ」与えるものだ。素晴らしい作品の素晴らしさを語る。批判されることを避けようとは思わないし、むしろ批判を必要としている。なぜ、当事者に許可をもらおうなどと考えるのか。

絶対的にHIPHOPであるために - 韻踏み夫による日本語ラップブログ

 ちょっと文章わかりにくいけど、批評を行う人間としての真摯さが伝わりました。めんどくさい人がちゃんと棲息している分野はいい! ダイバーシティ

 これに松本てふこさんしか反応しなかったのもったいないですね。ここまで書かれた側が、これをどう感じたか知りたかった。

(追記)って書いたら読み手の七々那ナナさんから反論が!

  なるほど……! 「こんな読み方があるんだ!」っていうのは韻踏み夫さんに対してですね。

 

 ここからin&onからさらに逸脱した話になりますが、日本語ラップやヒップホップに関して、最近一番読んで面白かった感想はこれです。

 

 樫さん意識してないと思うけど、これすごく晋平太の曲聴きたくなったし、「本人すら意識してない可能性のある作品の魅力」について語ってるし、無意識に批評になってますよね。こういうのが読みたいし、何より自分も書けるようになりたいですね。

 またまたズレるけれど、そんな樫さんのラップは下のふたつで聴けます!

www.audiomack.com

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