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ホンのつまみぐい

いろんなもののファンをやっている人が、日々のよしなしごとを綴っています。

永遠の少女マンガ〜名物編集長が語る少女マンガ史〜第1回 「私の編集者人生」

マンガ編集者の回想記は少なくありません。
西村繁男の「さらば、わが青春の『少年ジャンプ』」、宮原照夫の「実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記」、内田勝の「『奇』の発想―みんな『少年マガジン』が教えてくれた」、あるいは手塚治虫の担当編集者にインタビューした「神様の伴走者」などなど。
さらば、わが青春の『少年ジャンプ』 (幻冬舎文庫)実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記「奇」の発想―みんな『少年マガジン』が教えてくれた神様の伴走者 手塚番13+2
戦後、まだマンガが下位文化として扱われていた時代に、情熱を持ってマンガに取り組んでいた人々の話は、どれも生々しい野心にあふれ、半ば伝説化しつつあります。

サンデー・マガジンの創刊時の競争のこと、内田勝梶原一騎をくどいた時のこと、壁村編集長が手塚の最後と標榜し、ブラックジャックを連載させたこと…。男一匹ガキ大将最終話で、本宮が大きく「完」と書いた字を塗りつぶしてしまった話や、ケガで入院したちばてつやから半ば無理矢理原稿をもぎとった話など、善悪を超越したエピソードも少なくありません。しかし、これらはすべて少年誌の現場の出来事です。

少年マンガよりさらに一段見くびられていたはずの少女誌の現場で、編集者はなにを考え、取り組んでいたのか。

「わたしの少女マンガ史」はそれを淡々と言葉にしている本です。
わたしの少女マンガ史―別マから花ゆめ、LaLaへ
著者の小長井信晶は、おもしろブックで編集者として働き、別冊マーガレット編集長を務め、花とゆめ、LaLa、ヤングアニマル、MOEなどを創刊した名編集者。

この本はあくまで、雑誌の創刊までの経緯を軸に、時代状況の解説の合間に、時折作家との交流が語られます。その中には過剰に物語性のあるエピソードは含まれず、「ガラスの仮面」「スケバン刑事」といったヒット作のアイデアを練った際のエピソードも、淡々と描かれています。その差異に、何となく少女マンガと少年マンガの違いを見てしまうのは、あまりに比較対象が少なすぎでしょうか。

さて、森下文化センターでは、その小長井さんをお呼びし、「永遠の少女マンガ」という講座を開催しています(すでに申込終了)。今回の記事は、その講座第1回のレポートになります。メモの都合でインタビュー形式になっていますが、テープに録音したわけでないので、だいたいこんな話だったくらいに受け止めていただければと思います。

実は30分遅刻してしまい、冒頭の氏の来歴を語る時間は聴講できず。

インタビューアーのヤマダトモコさんは、今回の講座では彼の功績を大きく3つに分け、話を引き出していきました。

1997年に、川崎市市民ミュージアムを皮切りに開催された巡回展「少女まんがの世界展」は少女マンガの原画を公立の博物館などで展示するという、当時としては画期的な試みだったそうです。

これに川崎市市民ミュージアム側の担当者として関わったのが、ヤマダさん。

参加作家は美内すずえ木原敏江山岸凉子萩尾望都大島弓子、羅川真理茂、成田美名子池田理代子

作家の選定には小長井さんも深く関わったそうで、まず開催のきっかけと選定の根拠をヤマダさんがうかがう形でははじまりました。

マンガを公立館で鑑賞させた「少女マンガの世界」

小長井 少女マンガに恩義があった。これだけすばらしいものを作っている人がいるのに、それを知らない人も多い。だから、恩返しのつもりで、協力いただいた。

当時はまだ「マンガを展示するなんて」という声もあったが、だんだんと認知されてきた。原画を生で見る機会は少なかったから、子供からも大人からも「こんなにきれいなものなの?」という声があがった。北海道から九州まで、全県とは行きませんが、ほぼ全国で巡回を続けることができた。

作家は主に白泉社の雑誌で活躍した方から。池田先生は白泉社で描いていないが、少女マンガの突破口として提供してもらった

ヤマダ 羅川真理茂、成田美名子は他の方々に比べると下の世代の方。このお二人を選ばれた理由は?

小長井 これからのマンガを継いでいく作家ということを考えた。文化は次々新しい人がバトンを受け取って続いていくもの。ただ絵がきれいなだけでなく、少女マンガに大切な要素がある。たとえば「赤ちゃんと僕」はお兄さんと弟の絆を描いたもの。ただ耽美的なだけのものではく、そういう要素がある方を選んだ。そういうのは絵だけを見ていてもわからない。

ヤマダ 羅川さんはとても骨太な作風の作家で、現在は少年マガジンでましろの音を連載している、今まさに活躍している作家。このラインナップが的を得ていたことの証明ではないか。

「社会性と娯楽は両立できる」と力説して面接を突破

ヤマダ 小長井さんは小学館への入社面接の際、集英社の「おもしろブック」への入社を希望された。当時の小学館のエリートコースは学習誌だったはずだが、どうして「おもしろブック」を選んだのかについてお聞かせいただきたい。

小長井 実はその直前1年は、小学校でローマ字を教えていた。ローマ字を教えていたが、英語もできると勘違いされて尊敬されていた。いい加減な時代だった。
しかも、1年浪人していて、2年遅れていた。だから、どうしても就職しなくてはいけない。経済学部出身者は商社や銀行をねらうのが普通だったけど、そういう仕事のは惹かれず、マスコミを志望した。

もともと少年誌が好きだったから、少年誌の編集をやれたらと思っていた。当時は編集者が記者先生と呼ばれていたような時代。

小学館の主力は学年誌「小学何年生」だったが、「おもしろブック」はおもしろけりゃいいという体だった。
学年誌はエリートが希望するだろうし、「おもしろブック」はあんまり希望者がいないんじゃないかと思った。そこで面接に「娯楽と社会性は両立できる」と言ったことに、面接官が感銘を受けてくれた。

昭和30年代当時は悪書追放運動が行われた時代。ゲゲゲの女房にあるが、作家がつるし上げられたりしていた。

マンガが学校で集められて焼かれた時代に、出版社にとって一番痛いところだった。

ヤマダ おもしろブック時代のお話を。「少年No1」は関谷ひさしさん。「書きたいものを書いてもらってヒットした」とある。
イナズマ野郎【完全版】 (マンガショップシリーズ 181)
小長井 関谷先生はご自身もスポーツカーを乗り回しているような方。
自動車ものを最初に取り上げた作品だと思う。でも、いいアイデアを出した人、「最初にあれをやった」って言う人はマンガ界に常に7人くらいいる(笑)。単行本システムを発明したっていってる人は集英社の中に3人くらいいるんじゃないか。

ヤマダ ほかに「世界少年隊」を担当されて。冒険「コミック」というアオリが入っている。

小長井 世界少年隊のヒントはエルジェの「タンタンの冒険」。少年新聞記者のタンタンが世界中を回って冒険する。それと「十五少年漂流記」。これは世界のいろいろな国の子が集まって冒険する。それを組み合わせてやったのがこれ。
ペーパーバック版 24冊セット (タンタンの冒険)
あの作家の代表作は白泉社で生まれた

ヤマダ 「LaLa」の創刊号は、創刊メンバーが大変豪華。山岸凉子萩尾望都西谷祥子和田慎二、。それにもまして私がすごいと思ったのは、作家がみな「LaLa」でメジャー感のある代表作を作り上げられたこと。「日出処の天子」「ガラスの仮面」「スケバン刑事」「摩利と真悟」…。
日出処の天子 (第1巻) (白泉社文庫)ガラスの仮面 (第1巻) (白泉社文庫)スケバン刑事 (1) (MFコミックス)摩利と新吾―ヴェッテンベルク・バンカランゲン (第1巻) (白泉社文庫)
 そんなものはないとおっしゃられるかもしれないが、作家に向けたアドバイスのこつなどがあれば。

小長井 アドバイスのこつなんてのはない。教えてほしいくらい。
でも、結果的にみなさまが代表作を作ってくださったこをは事実。ぼく自身が「おもしろくなくちゃいけない」といい続けてきた。「おもしろい」には「分かりやすく」なくちゃいけない。それ一本。あとは幸運もあった。

みなさん、しばらくすると自分が仕事をしている編集部に飽きてくる。だから、そう感じた頃に新しいものを書いてもらう。少女まんが自体も交流期で、そういう時に書いてもらえたのは幸運ではないかと思う。みんな、ぼくにだまされて書いてくれた。

ヤマダ 「日出処の天子」は先生が非常に乗って、描いているのではと感じる。編集部全体に、そういう自由に描かせるムードがあったのでは?

小長井 「好きなものを描いてもらうけど、わかりやすく」は目指していた。

ヤマダ 白泉社の成功は新人の育成に成功したことがとても大きい。小長井さんは新人育成に尽力していて、別ママンガスクールというのを開催していた。

1966年9月号が別ママンガスクールの第1回。「COM」の新人賞である「ぐらこん」などより早い。

まんがスクールの一部。「マンガをどうやったら載せてもらえるの?」という読者に、「編集部へ持ち込みしよう」「遠方の人は送ってもいい」などの具体的な言葉がある。書き方のコーナーだけでなく、編集さんの言葉に熱意がこもっている。「絵がうまいだけではダメ。いろんなことにふれながら、我慢強くマンガに取り組みなさい」という内容のことが柱に描いてある。

小長井 別マは漫画家が足りなかった。有名な人は遅いし、とにかく新人を育てるしかないと。
その伝統は白泉社に行っても変わらず、創刊から新人を募集したはず。
そのうちにいい方が来てくださり、鈴木光明先生も月刊誌時代から指導してくださった。編集だけじゃわからない部分に対して、鈴木先生が尽力してくださった。
少女まんが入門―初歩からプロになるまで
ヤマダ 別マのまんがスクールの入賞者には、まんがスケールという原稿用紙(すみません、スケール、つまり透明な定規でした)が届けられた。この原稿用紙にさらに別マ十訓という熱い訓示まで描いてある。

これには親にこれを見せなさいというコーナーがある。「学校に行かせてあげなさい。就職させてあげなさい。だけど、まんがを描くことを認めてあげなさい」と。とにかく本気が伝わってくる。これを読めばできるっていう気持ちになる。

鈴木先生の「少女まんが入門」には技術だけでなく心構えまで描いてある。鈴木先生の著書だが、白泉社編集部の気持ちがこもった一冊だったのではないか。

萩尾望都さんと羽海野チカさんの対談で、羽海野さんが「少女まんが入門」を何度も読んだことを話していた。
マンガのあなた SFのわたし 萩尾望都・対談集 1970年代編
そうやって多くの作家へ影響が連鎖していったことを考えると、小長井さんは直接編集者として関わった人に対してだけでなく、マンガ界全体に影響を与えている。小長井さんの力だけで成り立っていたのなら、小長井さんが抜けた後に別マは衰えるはずだけど、そんなことはなかった。新人育成の方法が育っていたことが、まんがを支える力になったのでは。

「わかりやすく」「おもしろく」そして「作家の家族と仲良くせよ」まんが編集十訓

ヤマダ 新人さんにいつもかけていた言葉などありましたら?

小長井 うーん、あったかな?でも親御さんをだまさないといけない。「この人は必ず伸びますから、東京に出してください」と。ちょうど団塊の世代で、「上野駅」なんて歌もあったが、みんなが東京にでてきた時期。今考えるとみなさん相当に勇気があった。

ヤマダ 編集者をなさっていて、一番ご苦労なさった経験は?

小長井 それは漫画家を探すこと。つらいのはほかの編集と作家を取り合ったこと。他社の中だけでなく、自社で取り合うこともある。そういうのもつらいといえばつらい。

別マのころは育てても週刊マーガレットに行ってしまったり。別マはそもそも新人育成の場として作った雑誌というのもあるのだけど。

ヤマダ 別マと別フレ。そして本誌である週刊誌があって、それが少女まんが全体を大きくしていったのでは。

一番うれしかったことは?

小長井 具体的には本が売れること。昔は売り上げ率は95%が当たり前で90%行かないと怒られた。出版では売れるも売れないも編集者の責任。ビールなんかは売り方次第と言う。広告や営業の力が強い。

ヤマダ 実は、まんが編集十訓というのも存在している。これも小長井さんが?

小長井 これは極秘だったんだけど…。この十訓にも鈴木先生の考え方が入っている。今これが使えるかわからないが。

1 まんがは題名とイントロで決まる。
まんがは相撲と同じ。独りよがりな題名をつけるな。
やたら気取ってなんだかわからないものをつけないで、イメージを引き出すものをつける。

2 第1回から人気のでないものは、その後ものびない。
出るものもまれにはあるけど、やっぱり1回目からおもしろくなくちゃだめ。

3 テーマと設定を工夫しなくちゃいけない。
補足しないと説明できない内容はダメだ。
小学生でも説明できるようにしなくちゃいけない。

4 今までどこにもなかったようなテーマをねらわなくちゃいけない。
常に本邦初をねらえ。

5 ストーリーが転がらなくてはいけない。
次はどうなるんだろうと期待をもたせるものでないと。

6 おもしろければなにを描いてもよい。
そのくらいの極端なこと言ってあおりたてていた。
なにを書くかではない。「おもしろい」ことを描かなくてはいけない。

オタク的というか自分の世界の強い人も使いようでメジャーになるというか。
そういうのを文学の言葉で「転ばせる」という。小説だって、作家が希望するのは純文学。そういう人に大衆小説を書かせることを「転ばせる」という。柴田練三郎なんかもかつては純文学を描いていた。

7 対象年齢を決める必要はない。
だから別マのキャッチフレーズは小学生からOLまで。
わかりやすくておもしろい。

8 編集者漫画家はまんがを読むな。
もちろん読むのだけど、まんがばかり読むなということ。小説、映画、テレビ、演劇と、なんにでも接しなくてはいけない。

9 漫画家になにを描きたいか聞くな。
そんなのは察してやればいい。しかし、その通りやってもヒットしない。

読者に聞くな。
よく読者にどんな作品がいいですかと聞くがこんなバカなことはない。読者に見たこともないおもしろいものを提供するのが編集者の仕事。

10 これは今は通用するのか…。
「漫画家の家族と仲良くしろ」
今は漫画家と話をしない編集者も多い。
家も知らない。でも、どこに住んでるのかくらい知っていないと。

まんが雑誌を成功させた編集者は、どんな雑誌も成功させることができる。
それは結局読者を理解して、読者の世みたいものを作るというのが一番要求されるのがマンが編集者だからではと思う。

最後に、「まんがは優等生を堕落させ、劣等生を奮起させる力がある」。それがまんがだと思う。


ヤマダ 「漫画家の家族と仲良くしろ」。これを今の言葉に置き換えると、「コミュニケーションをちゃんと取る」ということだと思う。今は直接会うのに理由が必要な時代。
景気が悪くて編集さんが抱えている作家の数が多いということもあるが、原稿を送っても感想を返さない編集さんも多い。個人としてつきあうことが難しくなっているのでは。


質疑応答

参加者 男性が少女まんがの編集を目指すのは珍しかったのでは。どういう気持ちだったのか。

小長井 最初の少女まんがは継子いじめとか、そういう独特のムードがあった。しかし少女はそれだけではない。たとえば少女クラブにはいろいろな小説などがあった。

当時は恋愛はない。でも、冒険や時代物のチャンバラなどがあった。それから探偵小説的なもの。だから、少女も少年と変わらない。

ぼくはそういうのをみていて、少女はこんなものだって決めてはいけないと、だからいろいろなテーマで描いてもらったら、描きたい人がいた。スポーツものも最初は少女まんがにはなかった。
でも、浦野千賀子さんがスポーツものを描きたいというから「それはおもしろい」といって描いてもらった。
アタックNo.1 (Vol.2) (ホーム社漫画文庫)
参加者 今のまんが業界に元気のない原因は?

小長井 端的に話せればいいけれど、簡単には言えない。でも、ぼくは編集出身だから、編集にも非常に責任があると思っている。今は雑誌がコミックスを売るためのものになってしまって、雑誌との結びつきが弱くなってしまった。雑誌がただの発表の場になってしまってはいけない。雑誌のエネルギーがないと。

参考リンク 「敵が見えづらい」、「花とゆめ」「LaLa」を創刊した編集者が語る、少女マンガの現況


終始穏やかな小長井さんでしたが、編集十訓を読み上げる際には声が鋭く、語気も強くなり、現場でのどん欲さを思わせる口振りになりました。

少年誌に伝わるどこか暴力的な「伝説」と対照的に、多くの漫画家に穏やかな笑顔の似顔絵を描かれている小長井さん。しかし、その奥にある情熱や感性の鋭さが会間みえました。

先述の「代表作」ですが、たしかにどれもそれまでどこにもなく、スケールが大きい。そして、どれもこちらが思っても見なかったところに着地する。

そのスケールの大きさを、小長井さんや白泉社の方々の器が支えていたことを思わせる講演でした。
しかし、あくまでメモであることを強調しようと「で・ある」調にしたら読みにくいこと!
時間があったら整理したいです。

下記は雑談&メモ

のらくろ記念館にいったのですが、田河水泡の線いいですね!のらくろは専門書の紹介ページでしか読んだことがなかったのですが、見易いし、細い線がモダンです。マンガ家だったころの佐々木マキを思い出しました。
のらくろ喫茶店 [カラー復刻版] (のらくろ 幸福(しあわせ)3部作)うみべのまち 佐々木マキのマンガ1967-81
あと、「どらン子小鉄」冒頭の「目が覚めたら川の上の段ボールの中」ってのらくろが元祖なんですね…。これ、すごくびっくりしました…。それともさらに元ネタがあるのかな…。
どらン猫(こ)小鉄 (アクション・コミックス)