ホンのつまみぐい

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「カンナ道のむこうへ」(くぼひでき)

 この本に関しては公平に語る自信がないのです。発売前にゲラを見せてもらって、作者であるくぼさんの意図を聞いてしまっているので。

カンナ道のむこうへ (Green Books)

カンナ道のむこうへ (Green Books)

 内容的にも意図的にも、たぶんこの方の感想が一番的確。 

 今、職業教育というのが、早くから行われています。自分の好きなこと、将来の夢を見つけて、そこに向かって努力しましょう、と小学生の頃から言われたりします。文科省の答申でも、小学校高学年の目標として「憧れとする職業をもち、今しなければならないことを考える」「将来の夢や希望を持ち、実現を目指して努力しようとする」なんて書いてある。将来の夢や希望が早くから見つかれば、それは素晴らしいことだと思いますが、たかだか10年くらいしか生きてないのに、将来何になるか考えなさい、っていうのは酷なことですよねえ。(中略)
 
 (前略)「夢を持つ」ということ、いかに生きていくのかということ、自分がどこに向かって歩いていくのか、なんてこと、大人だって自信に満ちて語れるわけじゃないですから。そんなことが簡単にわかるなら、小説なんてほとんどいらないわけですから。(笑)ただ、否応なく食べていかなきゃならんわけで、その毎日の中で、なんとか日々を送っているのが大概の大人というものです。でも、その中で、私たちはやはりより良い人生を送りたいと願って生きている。その「より良い」価値観をどこに置いて生きるのか。何に心を込めて生きるのか。この物語は、ディテールでそこを語ろうとしているように思います。(後略)

 いやいや、くぼさんがお話ししていたのもだいたいこの通りで、それはもう思想的には否定しがたい立派なことです。さて、これだけきれいにまとまった評と作品を前にして、じゃあ何について語ればいいかというと、これはまさにディティールを楽しめたか否かだと思うのですが、すみません否でした……。
 
 フィクションは基本的には現実に存在しなかったことを作り手と受け手が共有することで成立しますよね。受け手が作り手の生んだ物語を受け入れるには、そこに物語が現実とつながっているという実感させる線が、なにがしか必要だと思います。それが登場人物の感情だったり、あるいは細部の風景に対する既視感だったり。よくリアリティっていいますけど、それって別に現実の出来事をよりそれらしくかけるかというより、世界とつながる線をどうやって用意するかということなんじゃないかと。

 だから、トンデモ展開で爆笑されるキン肉マンにはキン肉マンのリアリティがあるわけですよ。以前BSマンガ夜話で、「キン肉マンにおける『火事場のクソ力』は、理屈や体力では小学校高学年にかなわない低〜中学年の子どもたちの、唯一持てる『精神力という根拠のない武器』だ」という主旨の話があったと思います。主観に基づいた、しかし確実に子どもたちの中に存在する世界とつながる線。キン肉マンの人気には、そういうある種のリアリティがあったからなんじゃないかと思います。

 もう少しわかりやすい例で言うと、この間ブログに感想をあげた「あたたかい水の出るところ」では、主人公の妹で勉強の出来る秀才。だけどそのせいで親に重圧をかけられて精神の調子を崩している子・胡桃が登場します。胡桃は友達も作れず、家にこもって駄菓子を食べながら家事を姉の柚子に押しつけて勉強している不憫な子です。その彼女の手汗から、ポテトチップス・サワークリームオニオンの臭いがするという場面があって、これがとてもありそうなこととして想像できる。

 こういうことは、「物語にあるあるネタを盛り込むことが必要」という話ではなく、「物語を信じるためには、作り手と受け手が同じ世界を見ていると認識させる何かが必要」ということだと思います。

 「カンナ道のむこうへ」を楽しめなかったのは、そういう意味で世界を共有できるような部分がなかった点でした。

 カフェを作ろうとするいとこのお姉ちゃんの目標値の高さと甘さとか、情報としてのリアルさはていねいにちりばめられているのですが。そもそもレシピって科学だから現実と接続せざるを得ないはずなのになんでだろう…。

 しかし、これは結局小学校6年生頃に「マンガ家になって自分をいじめたやつの名前をやられ役で出してやる」と思っていたような私の性格に由来するものかもしれないので、作品の真価がどうなのかはよくわかりません……。

 ただ、小6くらいだと職業としての「夢」のほかに、漠然とした「大人になりたい/なりたくない」という悩みが生じると思うのですが、それを省いているのはあえて? 性の問題がからむから?