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ホンのつまみぐい

いろんなもののファンをやっている人が、日々のよしなしごとを綴っています。

映画「愛と誠」

 梶原一騎の作品はだいたい主人公が呪いにかかる。矢吹丈は戦いという呪いに、星飛雄馬は父という呪いに取り憑かれてしまったので、どちらの物語も後半は主人公が呪いといかに向き合うかが描かれている。わりと健全な精神の持ち主の伊達直人も、「より多くの人を救わなければ」という妄念に憑かれているので、ボロボロになりながら戦い続ける。世界中の人を救うことなんてできないのにね。伊達くん、それじゃあ過労死するよ。「タイガーマスク」は伊達の唐突な事故死というトンデモ最終回を迎えるのだが、梶原には死以外に伊達を妄念から解放させることができなかったのかもしれない。いや、単にめんどくさかったのかもしれないが……。

 「愛と誠」も“愛”という呪いのせいでいろんな人が事件に巻き込まれる話でだいたいあってる。この作品における“愛”は、見返りを求めずに相手を信じ続ける殉教的な生き様のことと思われる。「愛」という言葉はヒロインの名前でもある。愛は幼い頃に、旅行先で会った誠の顔に不慮の事故で大きな傷をつけてしまう。それがきっかけとしたすれ違いで誠の家庭は崩壊。高校生になって不良として恐れられるようになった誠に再開した愛は、彼を更正させようと画策する。

 映画はおおまかな筋を原作になぞり、梶原マンガ的な嘘をいかに再生させるかに心を砕いている。嘘の再生のためにしかけられたもっとも大きなしかけは、ミュージカルというアイディアだ。

 登場人物はそれぞれ唐突に昭和歌謡を歌う。あるものは自己紹介として、あるものは心情吐露として。そして、歌っている間、当事者以外の登場人物はたいがいそれをポカーンと眺めているのである。その様相は延々とモノローグを突きつける梶原マンガらしいし、まったく人の話を聞かない人物も作品世界によくあっている。

 武井咲は人の話を聞かないエゴイスト、でも世間知らずだからこそ無敵な愛をコミカルに演じてなお可愛いし、伊原剛志のマンガ的存在感は笑える。そして、梶原作品の愛読者であるという斎藤工演じる岩清水弘は原作の滑稽なまでに真摯な「眼鏡をかけても男らしい男」ではなく、滑稽なまでの行動力で愛をストーキングする「空気の読めない男」の部分がクローズアップされている。そして、これら「愛」を盲目的に肯定する人々に対するツッコミ役として、妻夫木の誠が配置される。

 70年代初頭にすでにアナクロだった(らしい)彼らの生き様をコメディとして描くことで、ある種批評的な目線で梶原世界を現代に描き出そうとしている。その試みはよくわかるし、個人的には好意的に観た。

 ただ、残念ながら全体に漂う雑さが没入を拒む。「歌う」というのはかなり刺激の強い演出なのに、それを各人物にフルコーラス歌わせている。最初の3人目くらいまではともかく後半は疲労感を感じてしまう。また、1972年に設定してあるのにも関わらず、JRの駅舎やロードバイクが街中に映っていたりというあえての適当さには「まあ、見逃してくださいよ!」と言いたげな作り手側の甘えを感じてしまう。ほかに不可解なのは、不良番長高原由紀の過去を演劇調に表現したり、愛と誠の出会いのシーンで愛と同級生達が、街中でたき火を囲んでいたり(原作では野外教室でたき火を囲んでいる場面)と、かなりすっとばした演出をしているのに、ラストに「馬鹿でもわかる」ようなわかりやすい解説場面が入っている。観客のリテラシーをどのあたりに設定しているのかがよくわからない。

 さて、さらに問題なのは、この作品が梶原一騎が描こうとしたものをきちんと描けているか、だ。

 個人的には最後に誠を抱きしめる愛の表情をどこか禍々しくも思えるように描いている点は面白い。しかし、誠をツッコミ役に使ってしまったことで、誠が愛に向き合った理由が「根負け」以外に考えづらくなっている。尺の問題もあるのだろうが、二人の間の因縁は原作より薄くなっている。誠の死の理由も、そして意味も原作とは大きく違っている。それはいい。でも、それ意味あるの? つじつま合わせじゃない?

 せっかく映画化したのだから、何となく忘れられなくなって原作を読んでみたくなるような出来の映画になってほしかったが、ネタ映画で終わっているのではないか。なんだか三池監督の「こんなもんで勘弁してくださいよ〜」という声が聞こえるような映画だった。

愛と誠(1) (講談社漫画文庫)

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愛と誠 コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD]

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